『対訳 ディキンソン詩集』

『対訳 ディキンソン詩集』

アメリカ19世紀ホイットマンと同時代の女性詩人であるが、なんと対照的なのだろう。ホイットマン「草の葉」では、自己肯定と拡大、行動的で「野生の叫び」のような詩を歌うが、ディキンソンは自己否定と縮小、ひきこもり的隠遁、ミニマルなツィッター(ささやき)のような詩である。だが、ディキンソンの詩を読むと、「激しい内面の隠者」であるとともに、死や苦悩、敗北の歌を歌いながら、激しい激情を、軽るみを帯びた俳諧的ユーモアに包んでいると感じられた。私は、この詩を読みながら芭蕉の俳句を思っていた。
 56歳ニューイングランドの田舎町で独身女性のまま死んでいったディキンソンは、「死」の詩を多く書いている。だがなんと軽くユーモアを帯びていることか。「わたしがもう生きていなかったら」や「わたしは葬式を感じた、頭の中に」や、「お向かいの家に、死人が出た」さらに「蠅がうなるのが聞こえたーわたしが死ぬ時」「わたしは『死』のために止まれなかったのでー」など、死の凝視する強い精神で歌うが、冷静なユーモアが感じられる。
 「蠅がうなるのが聞こえた/わたしが死ぬ時 部屋の中の静けさは 空の静けさのようだった 烈しい嵐と嵐の間の」とか「それから理性の板が割れてしまい わたしは落ちた、下へ、下へと/そして落ちるごとに、別の世界にぶつかり、そして/それから/知ることをやめた」とか「わたしがもういきていなかったら 駒鳥たちがやって来た時−やってよね、赤いネクタイの子に、 形見のパン屑を」とか歌う。
ヂィキンソンの詩には脱世間的であり、「歓喜とは出て行くこと」「『脱走』という言葉を聞くと」とや、「わたしは誰でもない人!あなたは誰?」などはホイットマンの詩とは対極にある。夕日の詩も多く、さらに草花や小動物の詩も多い。「草はなすべきことがあんまりない」や「細長いやつが草むらを」などもいいが、私は蜘蛛の詩が好きだ。「蜘蛛は芸術家として」や「蜘蛛は銀の玉をかかえる」は蜘蛛を美創造者や芸術家と見なしていて素晴らしい。
 苦悩を通しての歓喜の歌がこの女性詩人には見られ、また「『希望』は羽根をつけた生き物」など死を通して「永遠の生」の歌がある。厳しい自己内面集中なかで、軽るみと厳粛、俳諧的ユーモアと敬虔さ、死と永遠の併置がディキンソンの詩にはある。(岩波文庫亀井俊介編)