藤山直樹『落語の国の精神分析』

藤山直樹『落語の国の精神分析


 精神分析学者の落語論で面白い。幼稚園の時から落語家になりたくて、いまも素人落語家として落語を演じている精神分析家は、立川談志の没後1周忌に、談志の「死の影」のもとにこの本をまとめ、巻末にはその弟子立川談春との対談も掲載されている。精神分析論と落語論が綯い交ぜになっているから楽しい。落語には複数の他者が登場し分裂し、それを一人の落語家が生きた対話の運動のパフーマンスとして演じる。精神分析は人間が本質的に分裂していると考え、意識と無意識、自我と超自我、精神病と非精神病、本当の自己と偽りの自己というような複数の他者性からはじまる。その上で自分を不断に回復し統一を維持していく「芸=分析技法」が、落語家と精神分析家に共通しているのかもしれない。
 精神分析家は落語をこう見るのかと藤山氏の本を読み、目から鱗が落ちる思いだ。「らくだ」では、人間的事態としての死と、モノとしての死体の差異が正気だとすると、その差異がなくなり、無害な小市民の屑屋が「らくだ」というヤクザモノの死体を弔うことを、「社会病質的・パーソナリティ障害」の半次にそそのかされ、正気を失って現実から滑り落ち抑制されていた仮面がずり落ち狂気になるという解釈をする。藤山氏は立川談志のいう「落語は人間の業の肯定である」を正しいとし、落語は人間の不毛性、反復性、「どうしょうもなさ」を見せるという。「芝浜」ではアルコール依存からの脱却を、夢と現実の境界のあいまいさからの脱却としてみている。「よかちょろ」の若旦那をニートやひきこもりの若者の原型と考え、母親の不在と父親からの「象徴的去勢」(ラカン)から論じ、無責任体制が若旦那を狡猾で他人の苦しみを快とし、この世を搾取的に渡っていく倒錯的方向にいくと示唆している。
 「文七元結」の長兵衛の無私から、江戸っ子の心性にある欲望や損得や愛着に基ずかない献身の自我理想が分析され、「居残り左平次」の放縦や、「明烏」の若旦那の女性恐怖と母親との関係構造、「粗忽長屋」からパラノイヤ的人間や人工的乖離状態の人間などが引き出されている。談志一周忌の追善落語会や映画「立川談志」上映とともに読みたい本である。フロイトはドストエスキーなどの文学作品を精神分析技法で論じたが、藤山氏はそれを落語で行ったところが面白い。(みすず書房