莫言『赤い高梁』

莫言『赤い高梁』


莫言の小説は、古代からの野生の生命力に溢れた人物が主人公になる。背景には古代からの村落共同体と家族の系譜がある。野生の生命力は残虐な生死を伴う。その野生の行動力は、非現実的な中国小説の伝奇=武侠小説のような闘争をおこす。その残虐な死は、自然山河の美しい描写のなかで行われている。比喩が正しいか分からないが、歌舞伎の残虐な「死の美学」さえ感じられる。この小説でも小村落の抗日ゲリラが日本軍と戦い、赤い高梁の中で、ゲリラ隊の余司令の愛人で酒造小屋の女主人載鳳連が、日本軍の機関銃の銃弾に倒れ、高梁の茂みのなかで死んでいく描写は圧巻である。「祖母(載鳳連)は赤い高梁を見つめた。かすんだ目に映る高梁たちは奇妙に美しく、不思議な姿をしていた。高梁たちは呻き、ねじれ、叫び、絡みあい、化け物の姿をしたり、親しい人の姿になったり、蛇のようにどくろを巻いたかと思うと、またするすると伸びていった。その姿は言いようもなく美しい。高梁たちは、赤や緑、黒と白、青や緑とさまざまに色を変え、声をたてて笑い、泣き叫んだ。」この小説の主人公は、広がる赤い高梁畑である。載鳳連の花嫁姿で担がれ、高梁畑のなかで余司令に略奪され犯される場面も、生の本能と自然の美しさの二重性がある。
時代的には抗日戦争のゲリラを子供の眼から見ているがが、それを孫が語るという三重構造になっている。子供がゲリラ的戦いに参加していくのはカルヴィーノ『蜘蛛の巣の小径』を連想させる。一家三代の歴史を踏まえているから、マルケス百年の孤独』やリョサの小説に比較されるが、私は中国民間の伝承による水滸伝三国志のような武侠小説を思い浮かべる。祖父(余司令)や祖母(載鳳連)の古代的大きさ、武侠的英雄性から、孫世代がいかに小人物に衰弱していったかが、一族の歴史として描かれている。野性の生命力の喪失が、現代文明の成立でもある。(岩波現代文庫、井口晃訳)