フロム『自由からの逃走』

「自由論を読む⑤」
エーリッヒ・フロム『自由からの逃走』


 社会学化したフロイド主義によって、近代人の「社会的性格」という視点から説いた自由論の名著だろう。近代の個人の外的権威からの解放と自由の多義的な確立が、競争社会の中で孤独と、個人の無意味さ、無力さが高まり、その不安から「自由からの逃走」がおこる社会過程を分析している。フロムはこうした状況を、中世の束縛から自由の解放を成し遂げた16世紀西欧近代におけるルターやカルヴァン宗教改革から描いている。自由な個人として解放されたが、個人としての無力感や孤独感、不安感が、超越的神に服従し、自己否定と忠誠、自己犠牲の新しい権威に従属・順応して安心感をえる「自由の逃走」が始まったと見ている。私は現代のオウム真理教新宗教の「洗脳」への逃避を連想した。
フロムは「自由からの逃避」のメカニズムとして権威主義と破壊性さらに機械的画一性をあげている。権威主義とは人間が個人的自我の独立を捨て、その外側にある権威と同一化しようとする傾向である。「権威主義的性格」であるサディズムマゾヒズムは相互に依存している。個人的自己から逃れ、自分を失い、自由の重荷からのがれるため、支配―服従関係に入り、決して連帯しない。サド的性格は他人を自己に依存させ無制限な力をふるい、搾取し苦しめることに、快感を感じとる。マゾ的性格は個人の無力感から逃れるため、個人的自我を縮小し自己の外部の力強い権威の一部に参加しようとする。外部的権威であろうと、内面化された良心や心理的強制であろうと、それを主人にすることで自分の意志の決断や自由の責任、生きる意味の探究から逃れられる。サド・マゾ的性格は共棲状態になる。フロムはナチズムの社会的性格を権威主義的性格に求めた。私は「いじめ問題」に愛と友情の対等の交流がない支配―服従の相互依存関係をみる。
もうひとつフロムがあげる自由からの逃走は、デモクラシー社会での機械的画一化、自動機械化、体勢順応による「匿名の権威」に従うメカニズムである。個人が自動人形になり、自我を失いながら、同時に意識上では自分は自由であり、自分のみに従属しているという「にせの自我」をもつことである。「匿名の権威」とは過剰な情報の強調から生じている。流行主義、専門家主義、相対主義、断片主義、などで作られる「同調」主義である。常識、習慣、世論などの「匿名の権威」に依存し自由から逃走する。自由とは批判精神に満ちた個性による独創性の尊重と自発性にあるとすれば、日本の教育は「自由からの逃走」のシステムだと生きていたらフロムは言うだろう。(東京創元社日高六郎訳)