バーリン『自由論』

「自由論を読む④」
アイザィア・バーリン『自由論』

管理社会であり、画一性で体勢順応社会、情報操作のメディア社会、つくられた異分子への「いじめ社会」で読む自由論の古典だろう。バーリンはミルの自由論を発展させて、多すぎる自由を目の前にして恐れおののいている人々への自由論でもある。「ジョン・スチュアート・ミルとその生の目的」でバーリンはこう述べている、人間は自発的で選択の自由を持ち、自分自身の性格をつくるが、人間の生活はどこまでも不完全であり、間違いも多く、そこを自己変化し新鮮であるという認識をもち、最終性・完成性というものは不可能な存在だという。だから、真理は反論されることがないないならば、ドグマや偏見に堕落するから、意見の多様性が自由の条件になると述べている。「人間を他の自然物と区別するのは理性的思考でも自然にたいする支配でなくて、選択し実験する自由である」という。
バーリンは「二つの自由概念」を主張する。一つは「消極的自由」である。他人によって自分の活動が干渉されない自由で、「強制」とはわたしが行為しようとする範囲内における他人の故意の干渉をいう。集団的・社会的凡庸や画一性からの自由。干渉「からの自由」、他方「積極的自由」がある、自分自身の主人になる積極的自由は、非合理的衝動や制御できない欲望、快楽の追求から自治、自己制御による自由である。障害物のない境域、自分のやりたいことの出来る空虚な場所としての「消極的自由」に対し、自己支配、自己統御という「積極的自由」は、デモクラシーの集団化(多数派)により、たとえ理性支配でも温情的干渉主義に転化しやすい。理性的自己制御、自己支配は、最小限度の自由を干渉し始める。「私」の範囲が狭まり、「公」の干渉が次第に浸透していく。バーリンは「消極的自由」の権利を主張している。そこが崩れると「精神的全体主義」に成りやすいからである。
バーリンはいう。「パターナリズム(温情的・家父長的干渉主義)の統治は、いかに恩恵を与え、慎重、公平、理性的であっても、結局は大部分の人間を未成年者のごとく、おろかで無責任ものとして扱っている」というのは現代の福祉国家、税金ばらまき国家、教育管理国家の本質をついているように私には思われる。(みすず書房福田歓一ら訳)