シェイクスピア『テンペスト』

シェイクスピアテンペスト』(『あらし』)


 最近『テンペスト』は注目され、様々な批評が出ている。脱植民地主義批評で、この戯曲の孤島に出てくる土着人キャリバンを論じた『キャリバンの文化史』(青土社)なども出ている。1990年代の東京での公演を見ても14劇団公演もあるという。(扇田昭彦調べ)ガリレオ星界の報告』とほとんど同時期に書かれたルネスサンス終了期、大航海時代時代の始まりの時代、シェイクスピア最後のドラマである。
私が読んで感じたことは、プロスペローの第五幕とエピローグに集約されている。魔法の本と杖による魔術を放棄し、「いまや私の魔法はことごとく破れ、残るは我が身の微々たる力ばかり」(松岡和子訳)から始まるセリフである。復讐のため嵐を起しすべてをシナリオどおり演出してきたプロスペローの「作者の死」が宣告されている。このドラマは作者だけでなく権力者の権力闘争の死、魔術(科学)の死、植民地統治の死、さらには「神の死」までもがふくまれていると読める。第五幕第一場のセリフ「私はこの杖(魔法)を折り、地の底深く埋め、更に人の手の届かぬ深海の水底に私の書物を沈めてしまおう」(福田恒存訳)を、ルネスサンス期科学による自然支配に乗り出した人類に向けて述べられているように思える。ヤン・コットはこの独白を我々の時代では「原子力」についての独白だとみる。「知識への欲求、知識に対する恐怖、知識の不可避さ、知識に対する恐怖の不可避さ」これはレオナルド・ダ・ビヴィンチと共通するという。(『シェイクスピアはわれらの同時代人』白水社
小田島雄志氏は一つの観念・思想で読むことをいさめており、自然児キャリバン対人工的芸術家プロスペローといったような寓意で読むことも避けるよう考えている。({シェイクスピア遊学}白水社)豊穣なドラマ作品では当然である。キャリバンが韻文で語ることを見ても、(韻文は高貴な人々のセリフに使われている)西欧人が植民地に簒奪したキャリバンの土地を尊重して返す英国の和解と調和の願望を、シェイクスピアが予見していたとさえ思ってしまう不思議さを感じる。詩的音楽性とスペクタル性があるのか、2012年ロンドン五輪の開会式イベントに「テンペスト」が使われると聞いて、読み直してみた。(『テンペスト』松岡和子訳ちくま文庫、『夏の夜のゆめ・あらし』(新潮文庫福田恒存訳)