レイ・ブラッドベリ『華氏451度』

レイ・ブラッドベリ『華氏451度』


 ブラッドベリが亡くなった。この本は1953年出版というからSFでは古典になる。私は、かつてトリュフォー監督の映画「華氏451度」をみて、それにつられ読んだ覚えがある。冷戦時代アメリカで反共のマッカーシズムが吹き荒れていた。文化・学界はじめ枢要な地位にある知識人が密告、監視により攻撃され追われ、アカのレッテルを貼られパージされていった。ブラッドベリのこの小説にもその時代状況が色濃く出ている。知の根源になる書物は焚書官が密告などで探し出し燃やしてしまう。個人が思索したり瞑想したりすることまで犯罪とされる反ユートピアの世界が描かれていた。「海の貝」というIPODのようなラジオや、壁掛けテレビの娯楽が大衆に与えられ、匿名の付和雷同的な集団が形成されている。衆愚化社会に最後に核戦争がおこり破滅していくことも、当時の時代を反映している。
 最初読んだ時、読書(活字文化)の衰退とテレビなど映像(視聴覚文化)の隆盛による文明の衰弱を描いた文明批判と思った。今回再読してみると、それだけではないように思った。一つは、「記憶」の問題である。たとえ「古典」が消去されても、口伝で個々の人間が記憶し伝えていくという考えである。記憶した老人たちの小数集団、『伝道の書』『種の起源』『ガリヴァー旅行記』などが記憶されていく。そこには古典伝統文化の伝承への保守主義がある。第二は消費文化で大衆に売れる多数派への警戒がある。本でもベストセラーにたいする批判がある。テレビ視聴率が高ければいいという多数決文化への批判がある。「安楽の全体主義」の体勢順応主義に対する少数派擁護がある。ブラッドベリには「古風さ」があるから、現代SFを読んでいる人には、物足りないかも知れぬ。
人物像も浅く、焚書官のモンターグが何故突然に「書物派」に転身し反逆者になっていくかが十分に書かれていない。またブラッドベリの時代にはネットはなく、電子書籍もなかった。市場主義での出版不況もなかった。いまブラッドベリが『華氏451度』を書くとしたら、逆にネットやテレビを燃やす(炎上)小説を書くかもしれない。(ハヤカワ文庫、宇野利康訳)