ケネス・クラーク『風景画論』

ケネス・クラーク『風景画論』

 西欧風景画を論じた古典だろう。西欧ではパルチノン神殿時代にも、シャルトル大聖堂時代にも風景画は存在せず、17世紀に入って取り上げられ、19世紀に主導的芸術になり、20世紀には終焉を迎えている。クラークの風景画論は傑作だが、東洋の山水画など全然取り上げられていないのは残念である。なぜ西欧風景画が近代の一時期に全盛を向かえ衰えていったかの分析も十分に納得いかないが、その該博な知識は文明論としても面白い。
 クラークは風景画の歴史の生成を七つにわけている。「象徴としての風景」(15世紀ウッチェロなど)「事実の風景」(「風景画の場合、一切を抱擁する愛を表すものは光である」とクラークはいう。フアン・エイク、ヂューラー、ベリーニ、ライスダールなど)「幻想としての風景」(16世紀グリューネヴァルトダ・ヴィンチルーベンスなど)「理想の風景」(17世紀ジョルジョーネ、クロード・ロラン、プッサン、など)「あるがままの自然の把握」(18世紀コンスタブル、コロー19世紀モネなど)「北方の光」(19世紀ターナーゴッホなど)「秩序の風景画」(スーラ、セザンヌなど)。クラークの画家論で力が入っていて面白かったのは、コンスタブル、ターナーという同国人(クラークは英国人)とスーラ、セザンヌであった。印象派の風景画には厳しい批評を感じた。
 クラークは「風景画はあらゆる芸術様式と同じく、信仰表白の行為であった」という。光と大気が描き出す統一的世界像の創造の神秘感覚。現代科学技術時代が失ってしまった「自然信仰」と神の存在。レオナルド・ダ・ヴィンチが「自然には、決してわれわれの経験に属したことのない無限の作用がある」という無限で未知で破壊的な諸力にかんする自覚が、西欧風景画の根源にある。とすれば現代地球環境保護のエコ時代に風景画はいかに復興するのだろうかと、クラークの本を読みながら思う。(ちくま学芸文庫、佐々木英也訳)