小川勝『オリンピックと商業主義』

小川勝『オリンピックと商業主義


 
オリンピックは曲がり角にきていると思う。21世紀はスポーツ・ナショナリズムの時代といわれるナショナルの過剰、情報・記号化する劇場型スペクタクルのスポーツ、過剰な身体のためドーピングに行き着く問題、そして異常な商業主義の金権体質。小川氏は巨大化するオリンピックを巨額な放映権料を払っているテレビで見る我々の問題として捉えていて、問題提起の本である。第一章の「商業主義」の起源と歴史を読むと、オリンピックが1984年ロサンゼルス大会以来、営利団体でないIOCが収入を極大化しょうと、テレビ放映料や企業公式スポンサー協賛金(一業種一社)、チケット収入、オリンピック関連商品ライセンス契約料など巨額の収入を得ていることにある。2012年ロンドン五輪の放映料は12億6000万ドルが分配されるが、2000年シドニー大会の総支出は14億1900ドルだからすでに9割に相当していると小川氏は指摘している。
 商業主義の「弊害」は、ソウル大会からのテレビの放映時間に合わせた競技時間変更にある。「午前予選、午後決勝」という選手に合わせたスケジュールが「午前決勝、午後予選」に変更され、陸上、水泳、体操の選手の身体が動かない午前決勝という過酷な状況を作り出したという。競技環境より放映権料が優先されたのだ。ただ小川氏はテレビ向けルール変更として、野球のタイブレークやバレーボールのラリーポイント制、陸上の一回フライング失格制は「弊害」だと単純にはいえないとしている。
 一体IOCは商業主義で稼いた分配金を何に使っているのかは秘密主義で明確でないのでわからない。黒い風評が立つのもそうした秘密主義にもある。また野球やテニスが五輪競技種目に固執するのもその競技の国際団体に分配金が支給されるからである。
小川氏の本を読み私は五輪改革が必要と考えた。①4年ごとの世界各都市持ち回り開催の再考し、種目別に世界10か所に分散開催にする②インターネツトなど多様なメディアで、テレビ中心報道を相対化する③国別対抗でなくクーベルタンの原点のあくまで「個人対抗」「クラブチーム対抗」に移行する、アスーリト中心主義④寄付金や記念入場券で運営という「小さな五輪」で巨大化を縮小する⑤開会式などスペクタクルを廃止するなどである。(集英社新書