多木浩二『スポーツを考える』

多木浩二『スポーツを考える』

 スポーツとは何かを考える評論として色々な示唆を与えてくれる。多木氏は、近代スポーツがイギリスで何故生まれたたかをエリアス『文明化の過程』によって、身体的闘争・競争の「非暴力モデル」にあり、人為的なルール(規則)による「ゲームとしての社会」の成立をあげている。政治闘争を言論と説得によるゲーム的「議会制民主主義」の成立と、フットボールなどの近代スポーツ成立とを同根としてみる「ジェントルマン資本主義」からの解釈は面白い。
 さらに多木氏はフーコーの理論を使い、18世紀に身体の「規律・訓練」による機能的・効率的なルールとゲームに秀でた「従順な身体化」が、スポーツを創造したとしている。20世紀になるとスポーツのアメリカ化が生じ、産業社会の「大衆」を基盤に「消費されるスポーツ」が盛んになる。チームスポーツなのに個人がスター化するアメリカンドリームが、成功しやすく物語消費しやすい観客との一体化の集団心性と結びつく。野球、アメフト、バスケットの三大スポーツの成立である。多木氏は論じていないが、日本の場合スポーツは、軍隊的訓練(武士的)に近く、体罰を含む強制による生権力の訓練に重点がおかれてきたのではないか。そこに柔道の体罰や運動部の体罰的訓練が残存することになる。
 現代スポーツはメディア消費と結びつき、「過剰な身体」を要求し、100分の1秒を争うデジタル化、ドーピング使用、メディアのためのルール変更(バスケ24秒ルール、サッカーのオフサイドルールなど)身体練習の技術化などが生じてくる。私は多木氏があげる現代スポーツの革命である女性スポーツの誕生に興味があり、これまで男性身体を核に形成されてきたスポーツが、今後ルールの変更やスポーツ種目の異種混交による「性差の消滅」がどう発展するかが重要だと思う。マラソンなどは有望だろう。多木氏はオリンピックやワールドカップナショナリズムの相対化も取り上げているが、スポーツ産業やメディア放映料、選手契約料などスポーツ経済学の分析がもう少しこの本で書いて欲しかった。日本では2011年「スポーツ基本法」が成立し「スポーツ立国」「国家戦略としてのスポーツ」というナシヨナリズムの路線が強まっているのも問題である。ここにも軍隊的スポーツ訓練の残存がある。(ちくま新書