樋口隆一『バッハ探究』

樋口隆一『バッハ探究』


 
音楽学者のバッハ研究であり、音楽的にかなり難しい分析もあるが、現代のバッハ音楽の核心に迫ろうとしている。樋口氏はバッハの芸術を理解するためには、ルター派プロテスタント教会音楽の伝統と、音楽家家系としてのバッハ一族として音楽職人の伝統が重要であるという。その二重性は、教会オルガニストライプツィヒでトマス・カントールとして庶民の境界生活に音楽を提供する立場と、ワイマール宮廷楽師長として宮廷人に音楽を捧げものとする面にもあらわれている。『マタイ受難曲』と『ブランデンブルグ協奏曲』との二重性。
 天才は伝統と革新の総合である。樋口氏の本を読むとバッハは、北ドイツのブクステフーデなどのオルガンと、イタリア音楽のヴィヴァルディなどを総合しようとしているという。音楽形式としてはモノポリーポリフォニーの総合である。ポリフォニーの音楽とは多声・多元な表象の多様な交錯であり、変奏やフーガという追いかけごっこになる。バッハの「複雑系」の音楽は、明晰単純な判りやすさを好む啓蒙時代には、時代遅れと見なされた。樋口氏のこん本の面白さは、時代遅れのバッハがモーツアルト、ベートーベンらによってどう発見されていくかを述べた点である。特に20世紀音楽の12音音楽のシェーンベルグベルグウェーベルンなど新ウィーン樂への影響を述べた個所は、現代音楽がバッハ回帰していることが分かり面白い。
 私は『マタイ受難曲』が好きだが、10歳で孤児になったバッハが死を思う強い想念がキリスト教の賛美歌合唱コラール旋律を繰り返しながら、人間の弱さ、悲しさ、空しさとその救いを自分の考えとして創造していったことが、キリスト教だけでない「普遍性」があり、私のような日本人にも迫ってくる。樋口氏の本はバッハ研究の現状も触れられていて、西欧音楽とは何かを考えさせられる。(春秋社)