ショーペンハウアー『幸福について』

幸福論を読む(その④)
ショーペンハウアー『幸福についてー人生論』


 ショーペンハウアーには人間世界には困窮と苦痛に満ち、それをのがれても退屈が待ち受けており、邪悪や愚昧が支配権を持っているという認識がある。幸福や享楽を追求することをやめ、苦痛がなく静かな耐えうる生活に局限すべきだという。崇高な理想や外面的な富、名誉、社交、などを求める欲望(意志)や想像力を局限し、自己自身のあり方にあった個性とゆたかな知的「認識」の生活を幸福として描き出す。厭世主義ではなく、この世の空しさを外部に求めず、自己の精神の豊かさに重きを置く。主知主義的ではあるが。
他人の在り方を重視して、その評判や名誉、社交よりも「孤独」の修行により客観的に世間を見ていくことを利口な生き方という。人間が孤独に耐えられず外国に旅行したり、社交を求めるのは自分に耐えられず、内面の空虚と倦怠に駆られるからだと厳しい。名誉を重視しすぎ侮辱で「決闘」までする愚行を延々と批判している。ショーペンハウアーの大衆と精神貴族的超人の差別には癖壁する人も居るかもしれない。
私が面白かったのは、「老人の幸福」を逆説的に説いている点で、高齢化社会の幸福論だと思った。意欲・意志のなかに成り立つ事物の主観的な存在である青年期・壮年期には、苦しみや悲しみがまじり、幸福の追求には不断の幻滅が生じることになる。老年期は意志・意欲(性欲など)が減退し、そのための動揺が少なくなる。事物の価値と享楽の正体を経験により教えられ、ありのままの見方を隠蔽歪曲していた錯覚や幻滅や偏見を脱却して「平静」で「朗らかさ」を得る。「人生は空なり」という認識が出来る。貧困が無く健康が保たれれば、知的蓄積と判断力が鋭くなり全体的大観ができる。シヨーペンハアーの逆説的老人幸福論はアイロニーなのか。他方いまや「自動機械化」した老人がなんと多いことか。(新潮文庫、橋本文夫訳)