フロイト『ドストエスキーと父親殺し』

フロイト『ドストエスキーと父親殺し/不気味なもの』


 後期フロイトは、精神分析理論で宗教、文化、芸術などの解明に向かっていく。そこにはエロスとタナトス死の欲動)、幼年期の父親、母親との関係、抑圧と解放、自我と超自我の葛藤が主なテーマになる。この本に収録されている小品「ユーモア」は面白い。フロイトはユーモアを激しい感情が発生する状況でそうした感情が発生しないよう冗談をいうことで、現実の要求の拒否と快感原則の貫徹を図るのだという。ユーモアは心理的退行・反動プロセスで、苦痛の可能性からの防衛であるとフロイトはいう。ユーモアの語り手は、大人の立場に立ち、父親に同一化し、他者を子供の位置に貶めることにより優越を確保する。つまりユーモアの語り手は心的重心を「自我」から「超自我」に移したのだという。超自我がユーモアによって苦痛から保護しようという努力は両親の審級を受けついている。
「不気味なもの」では、幼年期に不安を抑圧したものが、再び返ってきて反復強迫になるところから生まれるとしている。「不気味なもの」は幼児期のコンプレックス心性が再帰するが、それは幼児期の父親による去勢不安や、母親の「母胎還帰願望」や、幼児期ナルシズムが反復強迫されるところから「不気味さ」が生じると分析する。抑圧されたものが返ってくる不気味さ。ドストエスキー「カラマーゾフの兄弟」の分析では、父親への同一化欲望が、ライバルとしての父親殺しの潜在欲望と、罰として去勢される不安の両義性を呼び起こし、サド・マゾ的性格を作り出すという。私が面白かったのは、ドストエスキーの賭博熱を、幼年期の自己性愛(オナニー)に対し、父親による処罰で去勢されることの不安が、賭博でのサド・マゾ的破滅という「自己処罰」の一つの形式として取られたという分析である。強い権威ある父親の跡を継いた世襲の息子が、会社の金を何百億円使い、賭博をおこなうことに、フロイトはどう分析したであろうか。中山氏の翻訳は読みやすい。(光文社古典新訳文庫中山元訳)