大塚英志・宮台真司『愚民社会」

大塚英志宮台真司『愚民社会』


 ゼロ年代をリードしてきた評論家と社会学者の対談であり、2003、4年と大震災後における2011年の三回の対談が収録されている。お互いの考え方に違いがありながら、議論が次第に共通性に収斂していくのが面白い。大震災後の対談が「すべての動員に抗してー立ち止まって自分の頭で考えるための災害下の思考」となっているように、「空気に縛られる社会から「知識を尊重する社会に」(宮台氏)という反ポピュリズムで一致している。動員される人民を「愚民」と二人は見ている。強い指導者や復興を感情的に求め、ただポピュリズム(空気)にあたふた身をゆだねる振る舞いこそ、この国の「近代」を困難にしていると大塚氏はいう。大震災で「終わりなき日常」(宮台氏)は終わらないし、まして日本が転機を迎えることも無いという認識が二人にはある。
日本の「日本ぶり」とは、宮台氏によれば、第一に「オマエモナー」的になにもかも人格(自己)に帰属する「自己の時代」の牢獄であり、第二に天皇主義も民主主義も一夜にして変わる「様々な意匠」の牢獄であり、第三に日本中で地域が空洞化して国道16号線的風景が広がって、何かというと行政の呼出線が使われる「スーパーフラット」の牢獄だという。宮台氏は、その認識から近接的な範囲の共同体的自己決定と、其れとの兼ね合いの個人の自己決定による自助と相互扶助の内発的意欲を重んじ、自治的共同体同士が、優秀な共同体思いのエリートを育成することに賭けるとしている。近年の世田谷区共同体への宮台氏の参画はその表れかもしれない。
大塚氏は「公共性を可能にする個人」をいかに教育で育成するかに賭けている。そこにはいま魚の群れのように動員されるポピュリズムへの嫌悪と絶望感があるように思う。護憲や9条護持のカリキュラムの実践教育を行う大塚氏は、「再帰近代主義」である。例え柳田国男の「公民の民俗学」に仮託していても、「空気」に敏感に反応し「日本は一つ」「公共」を口走る「群れ」思考に抗していく「自力で思考していく方法」を身につける次世代の教育に「近代」貫徹の希望をみる。(太田出版