オニール『楡の木陰の欲望』

オニール『楡の木陰の欲望』




 ウィリアムスの戯曲と同じようにオニールの戯曲も家族の枠のなかでのエゴイズムの葛藤と孤独、それからの解放の夢を描いている。アメリカ文学者・佐伯彰一氏は家族劇という形をとるのは、アメリカという歴史の浅い人工的雑種社会で濃密な人間関係のドラマを成立させるためには、原初的な家族とかコミュニティをとらざるを得ないと指摘している。家族のなかのエゴ的葛藤、家族という枠を通して浮かんでくる孤独な人間の姿がドラマの主題になる。(『アメリカ文学史』筑摩書房
オニールにはギリシア悲劇の基盤を感じる。この戯曲も父親の後妻で義理の母との息子エビンの不倫を扱っている。ニューイングランドの楡の木が覆いかぶさる木陰の農家での父・息子・義母の三角関係は「エディブス的」である。エビンと義母アビーが愛欲に燃える場面は、エビンの母が使い死んでから閉ざされていた部屋だし、父が死んだ母を冷遇し困憊させ、畑という母の財産を奪ったと父を憎むエビンは愛欲と母性愛で誘惑するアビーには勝てない。愛欲と物欲が家族のエゴの葛藤としてオニールの劇を悲劇にしていく。
二人の不倫から生まれた赤ん坊は、父の知ることになり、エビンとアビーの相互の誤解になり、アビーの赤ん坊殺しを誘発する。だが、罪の償いとして保安官に逮捕される時、二人は愛欲から「純愛」へと昇華した精神的成熟に達する。悲劇のカタルシス(浄化)。妻にも息子にも裏切られた76歳の父キャボットも厳しい神の信仰のもと、孤独のなか毅然と農作業に戻る。二人が逮捕され手を繋ぎ、門の外に出て行くときちようど日の出となる。アビー「日の出だ。きれいじゃねぇか。」保安官「すばらしい畑だ。まったく。これがわたしのものならなぁ」ここで幕が下りる。(岩波文庫、井上宗次訳)