高橋敏『国定忠治』

高橋敏『国定忠治



 国定忠治といえば大衆芸能では任侠の親分として赤城山に立て篭もったヒーローとして描かれている。果たして実像はどうなのかを歴史学者・高橋氏が資料や上州の現地を調査して書いた本で面白い。天保の改革から嘉永のペリー黒船来港までの幕末時代、関東で活躍した国定忠治は、いかなる人物かを地域史・民衆社会史の視点で迫っている。資料も天保の改革の老中・水野忠邦のブレーン旗本で国定忠治を取り締まる関東代官だった羽倉外記の書いた資料などを使っている。学者代官の官僚が、幕府に立ち向かうアウトロー水滸伝のように描いていることも面白い。
上州を中心とした関東は複雑に入り組んだ小大名や旗本の領地であり、日光例幣使街道もあり、警察力のない代官や関東取締出役が、二足の草鞋の博徒を雇う地帯である。貧困な耕地は関東ローム層に強い桑を植え、幕末には蚕農家が絹糸を生産し、金銭を稼ぎ、それを目当てに賭場が開かれ、博徒同士の縄張り争いが激化した。その博徒は豪族や街道の旅籠名主などと関わり、国定忠治も国定村の鎌倉時代における新田義貞の家臣の後裔であり、百姓といっても苗字帯刀し、武器を所持し剣術など武道に励む伝統は強い地域の出である。幕末上州は剣術が盛んで、北辰一刀流や忠治が免許皆伝といわれる馬庭念流など多く道場があった。新選組近藤勇は多摩だが、こうした幕末の気風の中に居る。
国定忠治が名を成したのは天保飢饉からだと高橋氏の研究は指摘している。飢餓で苦しむ窮民を救おうと、賭場で稼いた金銭や桐生の豪家からの寄付金募集で食糧を調達し、さらに地元名主とともに、沼を浚渫し日照り乾燥をなくそうとした。代官羽倉外記は「劇盗」と名づけ、幕府がやるべきことをやっている忠治に冷や汗がでると書いている。これが忠治が解放区のような「盗区」をつくりだすことになり、二束草鞋の博徒と対抗することになるきっかけである。反体制だとして幕府に睨まれ、磔になるきっかけにもなる。忠治義民説である。忠治がピストルのような「洋制短銃」で武装していたことには驚かされる。高島秋帆はオランダから鉄砲など買い付け闇ルートで転売していたという。アウトローは身分制・世襲制にしばられないから、良い性能の武器を手に入れ、もし関東取締出役と白兵戦になっても忠治に勝ち目があったと高橋氏はいう。
幕府についた勘助暗殺から、幕府は近辺大名の武力も借り忠治を追い詰めていく。中風に倒れた忠治は密告で捕まり磔になる。私が面白かったのは、その処刑を忠治が破った関所である上州大戸でやるときの大デモンストレーションである。見せしめのためか街道を大名行列のように美々しく練り歩き、絹の衣装を忠治は身にまとう。辞世歌や堂々とした言辞を磔の前に行い、槍で14回も刺され、しかもその遺体は盗まれ、密かに故郷のお寺に密葬される。キリストの処刑やフランスのアンリ4世暗殺犯の公開処刑を連想してしまう。(岩波新書