松浦玲『新撰組』

松浦玲『新選組

 松浦氏は、新撰組研究において近藤勇が京都から郷里武州多摩の知友に書いた長い手紙を読み込み、新撰組の歴史を再構成しようとした。社会が激変する時代に、新撰組はどう生きたのかがわかり面白い。新撰組の成立は、幕府が公募した幕臣でない浪士組を母体としている。それは尊皇攘夷尽忠報国のナシヨナリズムの思想同志集団だった。それが文久3年京都での長州激派追放政変を境に性格を変えていく。近藤は尊皇攘夷の考えは維持しそれがなるまで、幕臣になることさえ断っている。幕臣からなる見廻組と一線を画している。だから坂本竜馬暗殺実行は見廻組だから、新撰組は加担していないと松浦氏はいう。近藤勇が流山で捉えられ処刑されたのは、土佐藩竜馬暗殺の下手人と誤解していたからだという解釈は面白い。
幕府が開国に傾くと、新撰組は長州との対決姿勢と京都治安維持の役割の方向に「転向」していく。近藤勇土方歳三など新撰組のメンバーは、やはり江戸幕府の傘のもとでの忠誠心を持つていた。皮肉なことに池田屋事件は、思想的には尊皇攘夷だった新撰組と長州激派の「内ゲバ」だったことになる。近藤勇が最後まで長州戦争に拘った点については松浦氏の本で克明に描かれている。近藤勇の報国思想が、最後まで薩長連合の天皇制という王政復古にいかなかったのは、刀一本で無名の浪士から幕臣にになったコースは新撰組以外にないからだった。幕府支持で武士になるという東日本の庶民の願いの強さを新撰組に感じる。
慶応3年新撰組は幕府崩壊という悲運のなかで全員幕臣に取り立てられ、将軍はじめ上層支配層が大政奉還し生き延びたのに、独自の組織として甲陽鎮撫隊となり、流山,会津、函館と戦い、最後まで残った100人の隊員が天皇政権と闘った。松浦氏はこういう。「こんな組織は他に無い。滅びる徳川幕府の最後の輝きだった。それを支えたのが武州多摩、多摩はやがて自由民権の一大拠点になる」。天皇政権に対抗する後衛部隊が、最後に前衛部隊になる。(岩波新書