宇野常寛・濱野智史『希望論』

宇野常寛濱野智史『希望論』


 30代の評論家宇野氏と情報社会論の濱野氏による日本の希望に関しての徹底討論である。サブカルチュアーとインターネットに大いなる希望をみる二人の討論は、2010年代の文化と社会論としても面白かった。ただあまりにもガラパコス的に進化した現代日本のインターネットに希望をもつ考えには驚いた。インターネットという情報技術・情報産業にしか希望は残されていないのだろうか。「虚構の時代」から「拡張現実の時代」へという社会学的設定も、現実の上にコンピュータで「もう一つの現実」を作り多重化していくは同感できるが、それがニコニコ動画2ちゃんねる、AKB48の総選挙など双方向性としてあげられてもあまりにも「ネット村」のなかの特殊な「つながりの関係性」でしかないと思ってしまう。ネットは多元的コミュニケーションの一つでしかないのではないか。
 アメリカ的なネットによる市民主義への批判はわかるが、「日本的ネット」がn次元創造性やゲーム型社会運動の可能性を持つというが、ネットに国民性や文化性を入れて論じるのは文化論としてはいいが、ネットという情報形式とは次元がことなるのではないかとも思う。宇野氏が日本社会を「母性主義」と考えるのは面白かったが、それはネット形式の問題とは別次元である。サブカルではそう論じられれば納得がいく。私のような古い世代には二人が当然として語っている術語や人名などを、「注」を参照しながら読むのは楽しかった。1980年代に田中康夫著「なんとなく、クリスタル」の流行術語の「注」を見ながら読んだ読書体験を思い出した。
 濱野氏はいま世界を動かしているのは、「思想=物語」の内容でなく、ネットワークで繋がるという「形式」だと語る。日本での新たな社会運動の可能性を探るときも、この形式に着目すべきともいう。「大きな物語」よりも「大きなゲーム」だともいう。善意の連帯としてのゲーム性はいいが、悪のゲーム利用をいかに抑止するかをもう少し語ってほしかった。ネット世代の希望論としては読むに値する本だった。(NHK出版)