建礼門院右京大夫集』

建礼門院右京大夫集』
 
 
 平清盛の孫資盛の恋人であった右京大夫が、愛する人の死のあと、嘆きとその追憶を散文と和歌で綴った家集である。平家滅亡と愛する人の死の悲しみを、死に切れず「失われた時を求めて」追憶を書き、詠う右京大夫の一生続く喪の悲しみは、戦争や災害、事故で愛する人を失った人の共感を呼ぶだろう。
最初は軍事貴族の平家全盛をほこる高倉天皇の御世から始まり「雲のうえに かかる月日の ひかり見る 身の契りさえ うれしとぞ 思ふ」という和歌で始まる。年下で身分高き資盛との秘められた恋「つくづくと眺めすぐして星あひの 空を変わらずながめつるかな」宮廷文化の中で、平維盛、重衡、など光源氏に匹敵する優雅さが描かれていく。恋の苦しみから右京は宮仕えから身お引き、母の元へ。そこに源平内乱がおこる。
 ここから後半この家集のおもむきは一転する。寿永・元暦の内乱は資盛との別離、母の死と続く。「憂きうえの なほ憂きことを 聞かぬに この世のほかに なりもしなばや」壇ノ浦での資盛の入水。そこからは嘆きと追憶の日々である。「今や夢 昔や夢と まよわれていかに思えど うつつとぞなき」
宮廷時代は月を詠っていた右京は、ここで星月夜の歌人に変貌する。加藤周一は宮廷からでて星の夜がはじめて見えたのは、自然の発見で社会を失ったとき自然を発見したという(『日本文学史序説』)。新村出は「星夜賛美の歌人」(『南蛮更紗』)という。「月をこそ ながめなれしが 星の夜の 深きあはれを こよひ知りぬる」そこには右京の愛する人の追憶の心象が星夜に投影され、涙の追憶が浄化されている。後半51首の七夕歌群は嗟嘆のため息が綿々と続くものだ。「彦星の 行合の空を ながめても 待つこともなき われぞかなしき」。『平家物語』が叙事詩だとすると『建礼門院右京大夫集』は抒情詩に当たる。(糸賀きみ江 校注、「新潮日本古典集成」新潮社)