ザミヤーチン『われら』

ザミャーチン『われら』

 1920年代ロシア(当時のソ連)で出版されたこの本は様々な読み方があるだろう。反ソ連全体主義的計画経済の批判の書として、また個人崇拝批判の小説とも読める。現実と幻想が綯い交ぜになった魔術的リアリズムの前衛小説とも読める。オーウェルやハックスリーのような反ユートピア小説とも読める。また未来社会をあっかつたSF小説とも読めるだろう。私は人間の精神の自由(想像力の自由)と、合理的・効率的な幸福な科学技術管理社会の葛藤の小説として読んだ。
建物はすべてガラスで立方体広場という未来都市。守護者がすべての国民を番号(男性は子音で偶数、女性は母音で奇数)で呼び、くまなく監視する管理社会。単一国は「恩人」によってメンバーたる国民がおさめられ、「時間律法表」で24時間のスケジュールが決められている。200年戦争以来「緑の壁」で自然と野蛮な古代人は隔離されている。個人時間も決められ、その範囲で愛情やセックスがおこなわれ、子供は養殖でのように育てられる。科学技術と政治が結びつき支配体制を作っている。個性と自由が排除され、想像力も合理的・数学的理性から危険視され、想像力の脳の部分を切開手術で取り除こうとしている。
科学技術優位の全体社会で、核兵器ではなく、宇宙探査船「インテグラル」が制作されており、その製作担当官の覚書という形式でこの小説は進む。自然を排除した密室・カプセル社会で異端派は「緑の壁」を壊し自然を取り戻そうと反乱を企て、宇宙船を乗っ取ろうとする。私は9・11ニューヨークテロを連想した。この製作担当官と異端派の女性の恋愛を中心に。この担当官が単一国のなかでいかに苦悩していくかが、幻想を交え描かれていく。原子力発電事故のあと、この小説を読むと強烈な印象を受ける。科学技術産業と国家が独占的に社会をリードしていくと、どういう事態が未来に待ち構えているかを、このザミャーチンの小説は暗示していると思う。(岩波文庫川端香男里訳)