デュビュイ『ツナミの小形而上学』

ジャン・ピエール・デュピュイ『ツナミの小形而上学


 フランスの科学哲学者・デュピュイは、人類における「有限化した未来」の破局の到来が、悪を働くシステムが人々から独立に存在しているからだと考え、「未来倫理」を重視する。自らを「覚醒した破局論」といい、人類の継続的歩みを自己破壊の否定の結果だったが、それが崩れ「人類の未来に刻まれた運命の凝固したもの」が、未来に自己破壊を起こすという。
 リスボン地震アウシュヴィッツヒロシマ、9・11ニューヨークテロ、スマトラ大ツナミを念頭においているが、東日本大震災を受け日本版序文を寄せている。(初版の発行は2005年)そのなかで、道徳的破局であるヒロシマと産業・技術的破局であるフクシマを比較し、ヒロシマは悪をなそうとする意志から悪が生じ、フクシマは生産性を高めるという善を成そうという意志から、悪が生じていると述べている。その上で私たちの過ちで世界が終末を迎えようとする時のイメージは「悪意のない殺人者たちと、憎悪のない被害者」が住む瓦礫だけの世界だというギュンター・アンダースの言葉を記している。
解説で西谷修氏が指摘するように、デュピュイの考えは人間の暴力と自然の限界が相俟って破局は運命づけられているのだが、科学技術に依拠した産業経済によりシステム化した現代は、個々の人間に意図を超えた「行為の自動化」のサイクルに入ってしまい、「破局」がわかっていても避けられないのだと考えている。
 デュピュイはアーレントによるアウシュヴィッツで「ユダヤ人問題の最終解決」に熱狂した高級官僚アイヒマンの分析をあげ、悪の意識はなく、上からよく思われたい、仕事をきちんとこなしたいという普通の人間だったが、想像力の欠如、他人の立場から世界を見る能力不全、そして目先のこと以外見えない無思慮=近視眼的をあげている。未来の破局はこうした精神から来る。途方もない責任行為であっても、悪意の完全な欠如が伴うのだ。
 ヒロシマでも原爆をつかう道徳的悪がなぜ見過ごされたのかを、科学技術的創造物が人間の有限の能力条件を凌駕するとき、「想像力の欠如」を生み出してしまうという。デュピュイはこう書いている。
 「あらゆる領域の多種多様な決定、悪意やエゴイズムよりもむしろ近視眼でもって特徴づけられる数々の決定が、自己外在化ないし自己超越のメカニズムに即して、屹立する全体を構成するからなのである。そこでは悪は道徳的でも自然的でもない。それを私はシステム的悪と呼ぼう。その形態は聖なるものの形態と同一である」原発大国フランスの哲学者はこう危惧している。(岩波書店、嶋崎正樹訳)