フルトベングラー『音楽を語る』

W・フルトヴェングラー『音楽を語る』
 
 政治思想学者・丸山真男はドイツの指揮者フルトヴェングラーのベートーベン交響曲を好んだ。第九を聴き「何という演奏か、誰が第一楽章の、あの一見リズミカルな進行の奥にひそんでいるすさまじいカオスをこれほど見事に表現しただろう」(『自己内対話』みすず書房)と記している。ナチ時代に亡命せず、ヒンデミットなどユダヤ楽家を弁護したが、戦後にナチ協力を批判され非ナチ化審判までされた。少し違うが哲学者ハイデッカーの運命と共にそのドイツ性を考えさせられる。生誕125年になる。
この本はフルトヴェングラーが演奏や指揮者の在り方、さらにベートーベン観や現代音楽について語ったもので、ドイツ音楽を知るためにも面白い。再現芸術としての演奏について、あらゆる細部まで指揮者が机上で計算し「技巧」を重視することよりも、作曲家が作品を混沌から創造する過程を再体験し、形式を生成していくためには「即興」も必要だと述べている。そこには人間という有機体重視、部分と全体の関連、有機体の生成のような音と音の流れ、作曲家の原初の混沌を呼び戻すことが語られている。脇圭平・芦津丈夫『フルトベンブラー』(岩波書店)でゲーテ有機体論と比較しているが、この本でもそれは濃厚に出ている。いやより生物学的発想が強い。
有機体の生成、拡大と収縮、弛緩と緊張のリズム、終末という目的論などフルトヴェングラーの演奏論の根底が論じられている。ベートーベンも「生成」から捉えられている。さらに「現代の音楽」で無調音楽を批判し、調性クラシック音楽のフーガ、ソナタの緊張と弛緩を人間の生物学的性質から、美術の遠近法とともに擁護している。聴衆を音楽共同体と捕らえ、音楽には民族共同体が必要という考えはナチ時代といえ、やはり20世紀ドイツ的精神のように感じる。この本を読みその演奏を聴くと、また違ったクラシック音楽が聴こえてくる。(河出文庫、門馬直美訳)