ケベル『中東戦記』

ジル・ケベル『中東戦記』

 フランスのイスラーム政治研究者ケベルが、2001年の9・11事件の前後にアラブ諸国を歩いたフイールド・ノートである。エジプト、シリア、レバノンアラブ首長国連邦、カタル、イスラエルそれにニューヨークを探訪している。2003年の本だが、現在を予告している個所もあり、米国対イスラームイスラエルパレスチナ、聖戦、文明の衝突などの教条的見方を排していて、中東の複雑性、重層性が生き生きと捉えられている。
 例えば、ドーハで中東テレビ・アル=ジャジーラに出演して名声をもつイスラーム説教師カラダーウィーと話し、中東諸国の信教共同体は今後文明間のジハード(聖戦)よりも、イスラーム教徒間のフィトナ(内部分裂)による混乱が起こるという結論に達する。2011年の「アラブの春」という民主化運動を予見している。ケベルのフィールドワークでは、湾岸諸国のみならず、エジプトでもシリアでもレバノンでも、欧米的消費社会や欧米的価値観にのっとった大学などの教育機関、さらにIT革命によるモバイル社会が、まったく違う感性をもった若者が生みだしていることを記している。「中流信仰階層」にたいし「都市貧困青年層」の危機意識が原理運動になって、グローバル化を補完しあうとゲベルは見ているようだ。
 私が面白かったのは、エジプトの精神風景であり、ペルシャ湾岸諸国の産油国の繁栄とその憂鬱の描写、レバント街道をゆきながら、レバノン内戦の傷跡とシリアのアサド世襲支配の分析だった。少数民族から勃興したアサド家が権力にしがみつくのが良くわかる。イスラエル探訪、ヨルダン川西岸、ガザ地区を飛び回りながら、エスニシティと階層と世代の重層化し摩擦する現状を描き、単純にイスラエルパレスチナの図式を取らない。現実が一元的でなく多元的であることがわかる。ゲベルは移民問題多文化主義よりも「同化主義」を良しとしていると思った。いまEUのイスラーム移民問題は大きな問題となり、排外主義が台頭しているが、ケベルははやくもその危機を見抜いている。訳者の池内恵氏の翻訳も読みやすく、詳しい脚注も的確で現在の問題にまで敷衍して解説してくれて良い。(講談社選書メチエ池内恵訳・解説)