宮部みゆき『狐宿の人』

宮部みゆき『孤宿の人』

 徳川十一代将軍家斎の時代、瀬戸内の小藩・丸海藩に江戸で家人や家来6人を殺したという元勘定奉行加賀様が流人として幽閉されるところから物語は始まる。悪霊として丸海藩に様々な邪気、呪いを蔓延させるが、果たしてそれは真実なのか。架空の小藩の侍や農漁村民の生活とその不安が、瀬戸内の海山、自然災害のなかで、地域共同体の生活が生き生きと描き出される。藤沢周平の東北小藩・海月藩に匹敵する虚実織り交ぜた想像力である。この小説は魔女狩りや、その風評(噂)の恐ろしさ、自然災害を利用した暗殺、医薬と毒殺問題、悪霊が善なる御霊に転換する社会的安全保障など面白いテーマが散り混ぜられている。宮部氏という素晴らしいストリー・テラーによって、ぐいぐいと物語に引き込まれてしまう。
 だがこの小説の主題は悪と善とは何かだろうかを描いたものである。流人・加賀様にひょんなことで仕える9歳の少女ほう(阿呆のほう)は、江戸大商店の若旦那によるお手つきの子で、放逐され丸海藩の医家に拾われた孤児である。加賀様と少女は異端の「孤宿の人」なのだ。無垢で無知なこの少女に私はドストエスキー『白痴』のムイシュキン公爵を感じた。少女により悪霊として恐れられた加賀様の真実が明らかになり始め、少女に手習いを教えることにより加賀様との霊的交流が行われる。悪霊という風評はこの小藩の人々の不安から生じた事もわかりだす。
 不安からの風評は、真実を明らかにしないことと、藩内の党派争い、利害対立がからみ生じる。物語冒頭から、初恋の人をとられた藩の大身の令嬢が、少女が引き取られた医家の娘を白昼堂々毒殺する。幕府の藩取り潰しを恐れ隠蔽したことが、町役人の復讐の仕返し殺人を呼ぶ。城代家のお家騒動での毒殺が、流行病として風評が立ち、その真実を突き止めようとする町役人も死ぬ。物語最終に描かれる不安からの藩民の暴動と火事の場面は迫力がある。
 自然災害、落雷・豪雨が物語の転換に重要なポイントになっているのも、震災後に読んだせいか、日本的だとも思った。「悪」の闇の描き方は不満が残るが、人間が悪の「仮面」をかぶるのが快いという英心和尚の説も語られている。この小説では少女こうを妹として可愛がる行動的目明し志望の宇佐など女性が生き生きと描かれているのが良い。(新潮文庫上、下巻)