野口武彦『江戸人の精神絵図』

野口武彦『江戸人の精神絵図』


 江戸思想史が面白いのは、現代日本の精神とどこか似通うところがあるからだ。野口氏は江戸中期から末期の18−19世紀の江戸を取り上げている。野口氏はいう。水戸学の指導者・藤田東湖を圧死させた安政江戸地震(1855年)が、幕府統治能力の喪失を明白にし、歴史の転換になったのは2011年の東日本大震災に匹敵すると。藤田東湖を扱った章では思想的党派者の悲劇として、幕末水戸藩は「内ゲバ」の元祖としている。水戸藩邸が崩壊し、老母を救おうとして圧死した東湖以後は、藩内で武闘に発展し、息子小四郎も死ぬ。党派性を重視した東湖の矛盾は、尊皇と幕府御三家、攘夷と通商の一致が不可能な板ばさみにあったことだ。いまTPP(環太平洋経済連携協定)にも匹敵するだろう。
 野口氏は江戸精神地図を昼と夜、光と闇、理性と情念、公と私、善と悪の矛盾のなかであがいている様相を描き出そうとする。「雨月物語」を書いた上田秋成は、まず左眼を失明し、それが治癒すると右眼が見えなくなる。片方の目で「昼の光」を見、もう片方の目で「闇」を見ている。濃密な怪談と現実の諷刺と浮世草子
田沼政権の自由貿易主義と金権政治に反対し、寛政の改革を断行した松平定信は、合理主義の朱子学以外の儒学を異端として排斥した。だが「宇下人言」や「修行録」では、自分のセックスの有り様を描く。野口氏はこれを無意識の偽善として「暗い昼」としている。天地自然の「理」を信奉する定信が、異常気象・天変地異と前兆としての人妖を連続した現象として捉えているのも面白かった。
 文政リベラルの終焉として儒学者・松崎慊堂が二人の弟子―町奉行鳥居燿蔵と訴追された渡辺崋山にたいする毅然とした態度は、江戸の学者の生き方を示している。江戸時代とは巨大な矛盾の時代だった。(講談社学術文庫