ビルテール『荘子に学ぶ』

J・F・ビルテール『荘子に学ぶ』


 フランス中国学者荘子論である。西欧人はこう荘子を読むのかがわかって面白い。日本の中国学者荘子万物斉同無為自然、運命論、死生一如など「無の哲学」を中心に論じられている。(例えば小川環樹責任編集『老子荘子』(世界の名著)宇野哲人『中国思想』森三樹三郎『中国思想史』などである。)だがビルテールの読み方は違う。哲学として老荘思想道教から切り離して、独自の思想として荘子を読む・
書き出しから『荘子』の魏国王恵文君と料理人丁の対話によって、料理人の徒弟修業における身体と心の「無心」にいたる考えが示される。そこには我々自身が他者や世界と取り組んでいる関係の解体と再定義の哲学が実験作業として求められる。動作、活動の状態、ひとつの活動から他の活動の移行、「天」の活動と「人」の活動、幻視的な「遊」の意識、虚空と混沌、混沌の場としての身体、「主観性」「主体」が「虚空と物とのやり取り」から生じること、変化し、自らを一新する虚空、身体の働きに身をゆだねてこそ自律性が確保できるという逆説が記述されている。
料理人、車大工、泳ぎ手との対話で自在な経験の様相を明らかにしようとしている。過剰な人為にとらわれた意識が自在な活動をいかに束縛するかが説かれる。私は唐突だが野球のイチローの打撃修業を考え、職人や芸人、運動選手の終業と連想してしまった。ビルテールによれば、「遊」は意識が実際的なすべての配慮から自由になって、われわれの内で生起することへの傍観者になる幻視的活動だと荘子は考える。そこに無為自然がある。安らかな固有な身体それ自身の知覚に身をまかせるのが「遊」なのだ。
「混沌」に穴を開け死なしてしまう荘子の論は有名だが、ビルテールは「混沌」が新しい再生による秩序を作り出す要因として重要視している。ビルテールに西欧的「有の思想」がいかに東洋的「無の思想」を止揚しようとしているかが、この本では読み取れる。(みすず書房、亀節子訳)