フローベル『ブヴァールとベキュシエ』

フローベル『ブヴァールとベキュシエ』


 
 「ボヴァリー夫人」の作者・フローベルの19世紀末の反教養小説であり、百科全書的知識の探究の空しさと、読書の罪を描いた小説である。そこには、地域社会の匿名の大衆社会的共同体における凡庸な「紋切型社会」への絶望と諦念も感じられる。「ボヴァリー夫人」では地方の人妻が、恋愛小説を読みすぎ、不倫にあこがれ身を滅ぼしていくが、この小説でも二人の初老の筆耕が、遺産を手に入れ、地方に農場を手に入れ、様々な知識の学問的読書をして知の実験を行うが、現実ではすべて失敗・挫折を繰り返す様を描く。農学、化学、医学、地質学、考古学、歴史学、文学、政治学、宗教学、倫理学、教育学と次から次に読み漁る。フローベルはこの小説を書くために1500冊の本を読んだというから凄い。19世紀末の知的傾向が盛り込まれているとも読める。また近代科学批判とも読める。
 私も読書日記で様々な本を読んで読後感を書いているが、この本を読むと空しくなって来る。この小説を読んで私は、風刺小説であり、喜劇小説だと思った。虚無的などす黒い絶望を底に秘めた風刺と批判。「ガリバー旅行記」のスウィフトを感じる。あくことの無き知の探究と挫折の末、最終章になると、囚人の子供で引き取り手のない兄妹を「教育」しようとしてブヴァールとベキュシエは、ルソー的理想の教育を教育学の本に学び、自らの読書で得た知識を教えようと悪戦苦闘するが、子供は学ばず不良化して裏切られていく下りは、教育学への風刺である。
絶望した二人は、再び筆耕に戻り、自分たちが読書した本を書き写し、さらにフローベル作『紋切型辞典』も書写するとは、なんたる知への諦念だろう。フローベルはこの小説を完成させずに死んだ。西欧19世紀小説の傑作である。「読書の罪」を感じながら読了するのは大変だが。(岩波文庫上・中・下三巻、鈴木健郎訳)