西郷信綱、加藤周一『梁塵秘抄』

西郷信綱梁塵秘抄
加藤周一梁塵秘抄


 平安末期の今様集『梁塵秘抄』は「遊びをせんとや生まれけむ 戯れせんとや生まれけん 遊ぶ子供の声聞けば 我が身さへこそゆるがるれ」で有名である。この二冊は『梁塵秘抄』を論じた書として面白い。今様とは鼓という単純な打楽器で歌う歌謡で、旋律はかなり自由だったと西郷氏はいう。大陸から輸入された催馬楽は、ヒチリキ、横笛、琵琶、など多数の楽器を使い、和声旋律が主であるのに反し、今様は外来音楽から言葉を解放し、歌謡の歌詞を重視した流行歌でもあった。それを担ったのは遊女(売春婦でなく、芸を売り漂泊する今で言うタレント芸能人)で、後白河院ら宮廷貴族の一部はカラオケのように今様を歌った。
 西郷氏によれば、藤原俊成ら貴族の和歌が、身体性や生活性のある言葉を避け「やまとことば」で作られたのに反し、今様はそうした言葉を多用する。反和歌的である。西郷氏があげているのは「我を頼めて来ぬ男」という今様で、相手を「男」と呼んだ和歌は皆無だという。加藤氏は『梁塵秘抄』には平安朝のかな物語、勅撰和歌集のすべてをもつてしても窺うことの出来ない世界が開け、類書のない平安朝の民衆の在り方が示されていると評価する。また今様とは12世紀で成功した現代詩だという。
 加藤氏の本が面白いのは、今様を仏教、日常性、性的表現、女心の歌の4つに分け、文学的、社会的、思想的に分析していることである。性的表現では和歌では決して使わない「いざ寝なむ」とか「きしきしきしと抱くとこそ」など直接性があり、和歌の「もの思う」心理的世界と対比している。また編者の後白河院が、政治世界ではマキアベリ的権謀術策を操りながら、それを超越する芸能に耽溺し、遊女乙前を師匠とし、今様に生きがいをみつける倒錯的在り方の分析が面白かった。貴族社会と遊女社会がどちらも「一夫一婦制」をとらない性的自由社会など存在形態が似ていたという指摘も面白い。(西郷信綱梁塵秘抄ちくま文庫加藤周一梁塵秘抄平凡社加藤周一著作集17巻」)