マックス・ウェーバー『職業としての政治』

マックス・ヴェーバー『職業としての政治』


 ヴェーバーの政治観はマキアヴェリに似ている。政治は、権力の分け前にあずかり、権力の配分関係にかかわる支配服従関係であり、正当な物理的暴力の独占を持つ国家共同体の基盤の上で行われる。そこには政治と倫理は切り離されている。支配の正統性は伝統的支配、カリスマ的支配、合法性による立憲支配の三類型に分類されている。近代国家での職業政治家は、行政スタッフ(官僚)と行政手段の二つが必要である。専門的官僚団の台頭と指導型政治家の出現がほぼ同じだという分析が行われる。官僚の非党派性と政治家の党派性、党争、偏見という責任の対比が述べられる。立憲国家の民衆政治家(デマゴーク)が分析され、弁護士やジャーナリストなどからの出身者について述べられ、さらに人民投票的民主制と政党官僚の出現で、ヴェーバーは党機構(マシーン)を伴う「指導者民主制」を選ぶか、それとも「指導者なき民主制―天職を欠きカリスマ的資質をもたぬ職業政治家」を選ぶかになるという。
 ヴェーバーによると、政治家には情熱、責任感、判断力の三つの資質が必要であるという。ヴェーバーのいう情熱とは、事柄に即すると言う意味で、仕事、現実、問題への情熱的献身である。情熱は「仕事」への奉仕としての責任と結びつく。判断力とは、事物と人間に対し「距離を置いて見ること」だという。ヴェーバーは政治と倫理は切り離すが、政治家が職業倫理を追求することは重視する。最後には有名な「心情倫理」と「責任倫理」が語られ、政治家にとって「責任倫理」が重要だと示唆している。結果の責任を背負い、道徳的に挫けず、政治には悪をなす倫理があると知り、「それにもかかわらず」と言い切る人間が政治を「天職」にすると締めくくる。
 この講演は1919年ドイツが世界大戦で敗北したときになされたが、読んでいて、10数年後に、民衆政治家で心情倫理家としてヒットラーが出現することを思うとき、その予言性と同時に現代政治の空しさを感じてしまう。この本は現代に対しても暗示力がある。(岩波文庫、脇圭平訳)