マキアヴェリ『君主論』

マキアヴェリ君主論


 16世紀ではマキアヴェリは「新しい政治学」だった。アリストテレスのポリスの民主主義による公共的共同体という「古き政治学」に対し、政治を支配者の力による支配服従で外国権力に対峙し、平和と安全な国家を築こうとした。そのためにルネスサンスの「人間の尊厳」よりも、現実の人間性を分析し、本来秩序を作り得ない利己的な欲求主体であり、個別の利害の行動者として捉えた。そこに秩序を作り出す権力者が必要となる。(福田歓一『近代の政治思想』)無秩序にならないため力と法による組織化で、人間のエネルギーを外から統制し、野心と貪欲を「処罰に対する恐怖」でコントロールしようとした。(佐々木毅『近代政治思想の誕生』
 マキアヴェリの『君主論』を読んでも、力と利益の強調が目立つし、政治的有効性と倫理的善悪は切り離されている。当時イタリアはフランス、スペインに侵攻され、国内は日本で言う「戦国時代」だった。統一のため、平和と安全のためマキアヴェリは「徳川家康」的人間を求め。チェザレ・ボルジア公に行き着くが挫折し、隠棲して『君主論』を書いた。政治的挫折者の書なのだ。だから政治的力量がある統治者に憧れた。「運命」を跳ね返し、「力量」と意欲のある統治者を望んだ。だから民衆に愛されるポピュリズム政治家よりも、たとえ恐れられたとしても、大きな政策を実行するガバナンスある政治家をもとめた。
 マキアヴェリの人間(民衆)観はこうだ。「人間は恩知らずで、むら気で、偽善者で、厚かましく、身の危険は避けようとし、物欲には目のないものである」と。そうである私はマキアヴェリ政治学に賛同しそうになるが、やはりサンデルの公共哲学と相互扶助の「新しい政治学」に傾く。とはいえ、昨今の日本政治の混迷を見ていると、マキアヴェリの政治思想は、政治のある側面を抉り出しているのも確かだと思う。(『世界の名著 マキアヴェリ中央公論社会田雄次訳)