吉田喜重『小津安二郎の反映画』

吉田喜重小津安二郎の反映画』 

 映画監督小津安二郎御影石の墓に「無」と刻まれているのは、「無常」でなく「無秩序」だと吉田喜重監督はいう。小津映画は無秩序と秩序のあわいをはかなく浮遊しながら、限りなく意味の開かれた曖昧さを、反復とそのずれで描き、映画の文法に背を向ける「反映画」だというのが吉田氏の主張だろう。吉田氏が入院し死ぬ直前の小津を見舞ったとき、小津が言った「映画はドラマだ、アクシデントではない」という言葉の謎を解いていく小津論でもある。
 『東京物語』冒頭の老夫婦が東京に出発するとき旅行鞄に空気枕を入れたかどうかのシーンに吉田氏は、空気枕のまなざしで人物を見、情景を匿名の非人称化された映像にしたりして映画のまやかしを観客に見せることが論じられ、映画における特定の視点の強要を小津は嫌ったと指摘する。記念写真と家族ドラマで『戸田家の兄妹』を論じ、家族の記念写真に来るべき死=不在が隠されているという。やはり『晩春』論は面白い。俳優の演技を解体し、透けて見える肉体を前面に押し出す。それが真っ直ぐ正面を見つめる姿の記念写真的な映像となる。有名な父娘の京都旅行における寝室の場面、近親相姦的欲望の浄化として、月明に映る壷のショットを、吉田氏は戯れの極地と位置付ける。娘が花嫁姿になり、去ったあとの椅子のショットに不在の魅惑を吉田氏は見る。
  『東京物語』について、吉田氏は「聖なる彼岸よりの眺め」とか、「死者のまなざし」という黙示録として捉えているのが、面白い。「事物の眼差し、不在の眼差し、不可視の眼差し、無秩序なる人間の眼差し、聖なる彼岸の眼差し、秩序ある他人の眼差し」で世界の無秩序に見合って、中心になる眼差しに統一されないのが、小津映画だと主張している。私は家族ドラマが離別=不在=死の反復でなる小津映画が、吉田氏の言う無秩序の眼差しと見合うと考えた。素晴らしい映画論だと思う。(岩波現代文庫