兵藤裕己『王権と物語』

兵藤裕己『王権と物語』


 この本の冒頭「物は霊であること、存在は物=霊であることで存在たりえたのが、私たちの古代世界である」と書き出している。物語が物=霊を憑依した漂泊芸能民による穢れを祓い、浄化する語りが、王権に取り込まれ、文字化しテクストになるというのが、日本文学者・兵藤氏の見解である。折口信夫説に近い。兵藤氏は太平記や琵琶法師の研究者だけあって、この本では『平家物語』『太平記』を論じた論文が面白い。『源氏物語』が王権内の一部貴族の物語だとすれば、軍記物語は生きた共同体で声の語りで民間に伝承された。
平家物語』は「王権的時空と反世界」で分析されている。この物語は無常観をといたものではなく、「朝敵」の必滅をとく王権因果論も強いとみる。平家のおごりは、終末論(王権秩序が崩壊している)の結果にすぎない。『平家物語』では、末世の不安のなかで、非日常の不可視のモノー天魔・物怪・怨霊―の出現が物語られる。平家は相反する二つの論理が重層すると兵藤氏は見る。無常観と王権因果論、日常と非日常、畿内中央と畿外辺境(源氏)、モノ鎮めと鎮まらないモノの語り、寺院権門とそれに隷属する語り手、文字と声の語りなど
の二重性である。
太平記』は天皇イデオロギーの書として捉え直そうとする。太平=永遠平和を予祝しながら、残酷でグロテスクな戦争状態を描く皮肉な書である。兵藤氏は平家の那須与一太平記の本間孫四郎の遠矢を比較し、平家では個人の行為は共同体の行為と一致している幸福があるが、太平記的人間は群れの帰属意識があいまいで、行動が個人化するから裏切りや無駄死の愚劣滑稽が生じると分析している。平家のほうが悲劇的であり、太平記では情況の意味が喪失しており、誇大な言葉でつぐむしかない。楠正成はじめ、意味との関係を喪失した実体のない言葉が太平記には浮遊している。「死ぬこと」「死んでよい」という武士道の反自然的意味、それを作為・虚構する言葉がえんえんと太平記には書かれていく。
私は兵藤氏の太平記論をよみながら、太平洋戦争末期の兵士たちの心情を連想してしまうのだった。(岩波現代文庫