ヘンリー・ジェイムス『アスパンの恋文』

ヘンリー・ジェイムス『アスパンの恋文』


 ジェイムスの小説は、後期になると深い心理描写が散りばめられ難解になる。だが中期のこの小説はサスペンスに満ち、息を付かせずに読める。舞台はヴェニスであり、そこの古い大邸宅に住む老婦人と姪のもとに、アメリカの伝記作者で文学研究者がやってきて下宿人として住む。このアメリカ人は、アメリカの大詩人アスパンの元愛人である老婦人が所有している恋文を手に入れ、伝記に書くため下宿人として潜入したのだ。果たして手紙は手に入るのか。ポー「盗まれた手紙」やカフカ「城」のように存在するのか、焼却されたのか、隠し場所はと老婦人と姪とに対して駆け引きが続く。ただし視点は伝記作者の一人称の語りだから、主観的であるが。
この小説には芸術と生活、プライバシーと偉大な芸術家の真実への暴露といったテーマがある。老婦人から「出版ゴロ」となじられる場面も描かれている。だが面白いのは三者の性格であり、その駆け引きにある。元愛人の功利的な金銭の駆け引きや、老獪な老人の頑固さ、権威的な態度の底に姪に対する繊細な愛情が流れている。他方伝記作家は、研究のためといいながら、手段を選ばず他者を利用して、最後には姪に結婚の夢まで抱かせてしまう。この小説の素晴らしい人物は、中年のオールドミスの姪だと思う。弱々しく善良で無垢に見えて、自分が利用されたと知ったとき、成熟した寛容と勇気ある決断の行動をする。ジェイムスによる他の小説の女主人公―デジー・ミラー、ミリー・シール、マギーなどのアメリカ娘を思わせる。翻訳も良い。(岩波文庫、行方昭夫訳)