トマス・ケンピス『キリストにならいて』

トマス・ケンピス『キリストにならいて』


 15世紀ドイツ修道院で一生をすごし黙想と祈祷の修練をしたケンピスのこの本を読むと、私は恥ずかしくなる。とてもキリストにならえないと思う。例えば学問があり聡明と思われようと私の言葉を読むなという「空しい世間的な知識にたいする戒め」とか、「読書よりむしろつつましい祈りによって得られる自由な心の卓越性」とか、「他人の生活を好奇心で訊ねさぐるのは避けるがよいこと」「やたらな批判を下すのを避けること」などは、心に突き刺さる。
 大いなる安らぎを求める4ヵ条は、①自分の意図より他人の意図をおこなう②自分の所有が他より多いより少ないほうを選ぶ③いつも他人より低い地位を選ぶ④神の御心が欠けず成就するよう祈るだが、とても出来そうも無い。ケンピスが戒めるのは被造物たる人間の自愛・傲慢・虚栄・無限な欲望であり、被造物の空しさから永遠の神への愛と服従であり、己を低くする謙遜さである。自己否定(克己)とあらゆる欲望の捨離である。
 ケンピスの思想には、自然(人間の自性)と神の恵みとは相反するものという認識がある。自然は克服されるのを欲せず、超克され自発的に制御されるのを好のまない。ところが神の恵みは自己の抑制に努め、感覚的なものに抗い、克服を望み自身の自由ばかり行使しない。自然は自分の利益のため骨を折る。ところが神の恵みは自己利益より、多くの人の役立つことをする。自然は屈辱や軽蔑を恐れるが、神の恵みはイエスの御名のため酷い仕打ちを喜びとして耐える。自然は欲深で、与えるより貰うことを喜び、私有を好む。神の恵みは情け深く人とわかちあい貰うより与える。自然は自分の肉体や気を散らす快さを求め、神の恵みは肉の欲求を憎み、うろつきまわることを避ける。
 ケンピスの思想はキリストにならい、苦難と受難の中、自己反省と改善の決意で「脱自然」の道を行こうとする。自然支配・自然の克服(人間本性の自然の克服)がある。それは近代の人間中心主義、自然欲望主義とは相反するだろう。それが近代の科学技術の自然支配・克服と裏表の関係にあることである。人間が神になり自然支配・克服に乗り出しだ現代の傲慢さを見たときケンピスはなんというだろう。(岩波文庫・大沢章・呉茂一訳)