広瀬和生『落語評論はなぜ役に立たないか』

広瀬和生『落語評論はなぜ役に立たないのか』


落語評論だけでなく大衆文化、芸能文化全般に当てはまる評論家観が、広瀬氏の本に示されていると思う。「最強の観客」としての評論家論で、芸談や上手い下手をいう資格もないし、良く見聞きし研鑽を積んで、これが面白いという情報を消費者に提供できればいいという。演者の立場にも、超越者の立場に立たず、あくまでも「観客」の代表者の立場にたつというのは納得できる。
広瀬氏によると、落語は文学として「読む」ものでなく、落語家のライヴ・パフォーマンスを楽しむ「話芸」で、声のトーンやリズム、表情や仕草、そして独自の演出をひっくるめたものだと考える。広瀬氏は古典遵守こそ絶対という「古典落語」と結びついた「ホール落語」が、「昭和の名人」−志ん生、小さん、文楽などーの崇拝となぞりによる画一化を生み、落語を伝統に縛りすぎ凋落させたと見る。広瀬氏は「古典を伝承する落語」から「自分の言葉で語る落語」が重要であり、演者の語り、自分の言葉で古典を作り変えることが、21世紀始めの面白い大衆芸能を作り出したのだという。
広瀬氏はその立役者として立川談志一門―立川流である立川志の輔志らく談春、こしらを挙げ、彼らが落語協会から脱退し、寄席に立てなくなり、アンチ立川の評論家が多い点を批判している。
この本を読んでいると、立川談志一門に肩入れし過ぎていると思う。だが小朝、や桂小三治も改革派としているから、偏向しているとも思えない。談志は大勢では異端かもしれないが、談志の「現代落語論」「最後の落語論」の主張は、これこそ落語評論だと言いたくなる好著なのだ。(光文社新書