『正法眼蔵随聞記』

正法眼蔵随聞記』(古田紹欽訳注)


 禅の宗教思想家道元の語録を弟子が筆記したもので13世紀の本である。道元の思想は『正法眼蔵』に書かれているが、随聞記では道元の修行や出家、仏法、倫理が語られている。まず無常観。命は不確定で危険の状態も続く。「生死事大なり、無常迅速なり。心を緩くすることなかれ」出家の要諦は、我執を捨て、貪欲を無くし、博覧強記も捨て、「心身脱落」することにある。また芸術も捨てる。「文筆詩歌其の詮なき事なれば捨べき道理なり」まるでピユーリタニズムのようだ。「況や多事を兼ねて心操をととのへざらんは不可なり」。「努力学人一事を専らにすべし」なのだ。
そうして仏法を得度するにはどう修行するのか。悟りはひたすらに座禅することにある。捨てたあとは座禅。「只管打座なり」。私はこれを読んでいて、法然親鸞の一念に念仏をすることと共通性があると考えた。我執をさり、神の慈悲に頼る瞑想と精神集中の祈り。随聞記を読んでいて、面白いのは、道元が徹底的に名利や富による所得増を否定していることだ。所有欲の対象となるようなものに我執の強い人々が多く集まって修学したところで一人の悟りの心を発するものは出来ないと厳しい。知識の所得である「多聞高才」も関係ない。清貧が僧に必要で、立派な寺や仏像は必要ない。富者や金持が神の国に入るのは困難という原始キリスト教と類似する。
和辻哲郎は「沙門道元」で(『日本精神史研究』岩波文庫)「道元の道は、自ら我執を脱離し得べきを信じ、またそれを要求する。すなわち世間的価値の無意義を観じて永遠の価値の追求に身を投ずることを、自らの責任においてなすべしと命ずる」と指摘している。道元は出家には貧でも無知でも性差も関係なく平等だが、だからといって、万人の救いというポピュリズムはとっていない。「学道は先ずすべからく貧を学すべし。名を捨て、利を捨て、一切諂うことなく、万事なげすつれば、必ずよき僧になる」と道元は言っている。(角川文庫)