シェイクスピア『間違い喜劇』

シェイクスピア『間違いの喜劇』

十二夜』にも一卵性双生児がでてきたが、『間違いの喜劇』では、二組の双生児が登場し、周りの人々の取り違えからドタバタの喜劇が起こる設定なのである。シラキューズの商人夫妻が実子の双子と養子の双子と海で難破し、生き別れになる。7年後に父が敵国に妻と二組の双子を探しにきて捉えられ、死刑を言い渡される。出だしは運命悲劇のようだが、その後はがらりと変わり二組の双子が、お互いを知らずに巡りあい取り違いの喜劇になる。読んでいてもセリフの上にアンティフォラス兄・弟、ドローミオ兄・弟となっているが、それが主従なので次第にどちらかわからなくなって、堂々巡りのような錯覚に陥る。そこが面白い。
このドラマの主題は、「もう一人の私」や「二重人格の私」という「私とは誰か」「私とは何か」といったアイデンティティの問題なのである。シェイクスピアは「私」をジキルとハイドのような悪と善の対比的分裂として捉えていない。実存的には同等・平等で平面的であり差異を感じさせない。また自分と同一の分身が出現するドッベルゲンガーでもない。「もう一人の私」となるのは、あくまでも「他者」の目によるのである。間違い・取り違いをするのは回りの妻であり、友人であり「世間」なのだ。さらにこのドラマを見ている観衆でもある。先入観と慣例、外面的類似、思い込みが双子を双子として捉えない。ドクマ(臆測、偏見)が無知をともない喜劇をつくりだす。「思い込みくだき」が喜劇にある。差異と同一が連帯することが、最終幕の最後でドローミオ兄弟のどちらが先に修道女院に入るか譲り合う場面で「おれたちはいっしょにこの世に出てきた双子の兄弟だ、なかに入るのもいっしょに入るのが公明正大だ。」のセリフにこのドラマの結論が象徴されている。(白水社小田島雄志訳)