犬丸治『市川海老蔵』

犬丸治『市川海老蔵


 2010年歌舞伎俳優市川海老蔵が、殴打事件で無期限謹慎になった。犬丸氏のこの本は十一代目海老蔵を通して11代の海老蔵団十郎の歴史を見ながら現代社会と歌舞伎、現代における芸のあるべき姿を考えたものである。「弁天小僧」「勧進帳」「助六」論として読んでも面白い。犬丸氏には、市川新之助時代の考察は新しい歌舞伎俳優の登場として称揚していながら、海老蔵襲名後の芸には矛盾と裂け目があると厳しい批判があり、殴打事件の底流が見えてくる海老蔵の苦悩までメスをいれている。
 犬丸氏の新之助時代の評価は、その「助六」の舞台に代表されるような正統な異端児であり、近代歌舞伎の予定調和的祝祭空間の約束事を破り、「かぶき者」としての反権威性、野性的凶暴性が輝き、「しゃべり」と眼光の「睨み」により、それを乗り越える逞しさである。「怒れる若者たち」の芸能化ともいえる。2004年海老蔵襲名後はどうか。「義経千本桜」の「四の切り」で市川団十郎家への反逆としての大立ち回りや宙乗りというスピードとスペクタクルの「猿之助歌舞伎」を取り入れようとしたことが、海老蔵の溶解になると犬丸氏は指摘する。無原則的妥協は芸の「規矩」の喪失になる。先代団十郎菊五郎が作り出した「先人の芸」と向き合うことが海老蔵の「己を正すこと謹厳」への、また自己の客体視の成熟が舞台復帰の大前提とする犬丸氏の助言は、新之助時代を評価する犬丸氏の言だけあって重い。(岩波現代文庫