宮下徹『ゲルニカ ピカソが描いた不安と予感』

宮下誠ゲルニカ ピカソが描いた不安と予感』

 私はピカソの「ゲルニカ」を見ると叫喚が聞こえ、爆発音が響いてくる。特に左の死児を抱え首を仰向けに曲げている母親の呻きや、その隣にいる馬の瀕死の嘶きや、右の両手を開き落下する女性の金切なり声まで幻聴で聞こえる。生のリアリズムの絵よりも、プリミティブに線描で描かれ、立体主義やシュールリアリズムが混合した絵画の方が不条理の不安や恐怖の視聴覚的イメージを持つのに驚く。この宮下氏は、絵は世界の鏡でこの絵は見るもの不安・恐怖を映し出し、その上でヒューマニズムへの希求と愛の希望をといかけるという。
 この本の特徴は、「ゲルニカ」制作過程で数多く残された素描群や、愛人ドラ・ゲールが撮ったカンヴァス8枚の写真を収録して解説していることだ。女の頭部や牡牛に多くの紙数を費やしているのに驚く。女の頭部はのちの傑作「泣く女」に結実する。牡牛の頭部はこの絵でも異質でありピカソが拘ったのは何故かを、宮下氏はスペイン的暴力の象徴だけでない解釈をしているのが面白かった。宮下氏は「ゲルニカ」がピカソの他の作品と比べても、20世紀美術のなかでも特異性をもつて孤立していると見て追求していく、そこが面白い。
 ピカソはオリジナリティ至上主義でなく、変容に力点を置き、模倣と剽窃をものともせず絵を描いたが、この絵も単なる反戦画でなく、夾雑物と多層性が詰まっているというのが、宮下氏の解釈である。確かに戦争画といっても「ゲルニカ」は不条理に大量に無差別に虐殺されていく現代の戦争の黙示録的イメージが予感されている。ヒロシマやアウシュビッ、9・11テロの予感がある。と同時に当時ピカソが悩んでいた愛の三角関係の不安と破綻の深層も潜在的に反映している。人間のなかの実存的不条理と不安が、かすかな希望とともに浮かび上がってくる20世紀絵画の傑作である。(光文社新書