宮澤淳一『マクルーハンの光景』

宮澤淳一マクルーハンの光景 メディア論がみえる』


 マクルーハンは、1960年代に電子メディア論で一世を風靡したがその後忘れられ、90年代にネット社会の到来で再び見直されている。『グレン・グールド論』で知られる宮澤氏が何故マクルーハンなのかと思ったら、グールドは同時代人で同じカナダ人であり、親しい関係に二人がおり、交流もあったと知り納得した。ピアニスト・グールドは「電子文化の驚くべき予言」といい、マクルーハン地球村=聴覚空間=同時多発性に共感し、録音技術で聴衆の参加度を高める「クールメディア」に同感していたと宮澤氏はいう。
 この本はマクルーハンの論文「外心の呵責」をテキストに精読しており、読みやすい。電子メディアを中枢神経系の拡張と捉え、同時多発性で脳と神経の地球規模の拡張(地球村)から論じられている。不安な電子時代では、私たちを苦しめるのは内心の「良心の呵責」でなく、拡張によって外面の「外心の呵責」だとマクルーハンはいう。新しい電子テクノの本質を知らないとそれに操られる。それは相互作用をおこさせない同一化の閉鎖体系であり、自分たちが作った仕掛けの自動制御装置になり、自分自身の拡張にナルシス的に耽溺する精神的麻痺を起こさせる。集合的意識に対し自動反射をしない「判断保留」をマクルーハンは述べていて、電子メディア礼賛ではないと宮澤氏は述べる。
 メディアとメッセージの関係や、電子メディアと芸術形式論―反環境芸術(同時多発性とハプニング性)、例えばグールド、シェーファー、ケージ、フラー、ナム・ジュン・パイクなど芸術家とマクルーハン理論の影響も面白く読んだ。(みすず書房