カズオ・イシグロ『浮世の画家』

カズオ・イシグロ浮世の画家


 32歳のイシグロが老人画家の心性を描き、さらに5歳で日本を去りいま英国籍の作家であるイシグロが戦前・戦後直後の日本情景を描くその成熟度に驚く。1987年の作品である。その情景は映画監督・小津安二郎的なローアングルと気品を持つのは、イシグロが小津映画の影響を受けたためとも思う。戦犯的な挫折の戦後のなかで、老人画家が婚期の遅れた娘の見合いや結婚に苦労するのも小津的だ。主人公の老人画家小野が1947年から50年に渡る自分史をまじえた語りから、この小説は構成されている。日本的歓楽の夜のちまたや、花柳界の女性を描く「浮世の画家」が、戦中に「日本精神の画家」に変身しもてはやされ、戦後は一転して「戦犯」のようにひっそりと挫折の生活を送る。
 この小説では絵画での師匠と弟子の屈折した関係が、小野の師匠である浮世の画家モリとその弟子たちへの裏切りと、小野自身の弟子の離反と絡めて語られていて、そのクールな筆致の描き方と共に後の作品『日の名残り』とつながつてくる。だがこの小説のテーマは挫折を味わった老人の自己呵責と自己正当化の葛藤である。それが「記憶」という「病」によってどう変節していくかにある。私はこの小説は「失われない時を求めて」だと思う。
 イシグロの小説には「記憶」が重要な役割をしている。その「記憶」が謎を呼び、自己正当化で歪められ、記憶が相対化されたり、多元化されたり、新たに創造されたりする。この小説の語り手小野の語りが冷静にみえて、「責任」を避ける偽の記憶かもしれないと思わせてしまう。あまりにも率直に責任を認めながら自尊心を失わない健康な未来志向の老人とは何なのだろうか。戦後日本の戦争責任のあり方やアメリカ追随にまで広げて読むのは深読みなのだろうか。(中公文庫、ハヤカワ文庫、飛田茂雄訳)