藤井省三『魯迅』

藤井省三魯迅


 2011年4月7日に魯迅の長男・周海嬰さんが北京で死んだ。周さんはこの本でも藤井氏が取り上げているが、日本人医師による毒殺か、薬誤用説を強く主張していた人だ。いまそれは否定されているが、周さんら親族が魯迅の死因に深い疑念を抱いているのは、それだけ日本の中国侵略が不信感を残していると藤井氏は述べている。 
 この本は魯迅を東アジアのモダンクラシックとして捉え、前半は魯迅の伝記だが、後半の日本と魯迅や東アジアでの受容の在り方、現代中国と魯迅、さらに村上春樹魯迅体験が書かれていて面白い。太宰治『惜別』と竹内好魯迅』という戦中日本の魯迅を扱った作品を比較し、竹内は政治と文学の対立に悩む魯迅像を広め、太宰はにこやかに笑う人間臭い個性的魯迅像を創造していると書いている。また中学教科書に掲載され、魯迅作品は日本でも竹内訳で国民文学なみになったが、竹内訳は長文による迷路のような悩む魯迅の屈折した思考の文を、多数の短文に置き換え明解に分節化したのが、高度成長を歩む日本人に合ったという藤井氏の考えは卓見だ。香港、台湾、韓国、シンガポールでの受容史も今後の重要な研究になる。その先駆けを藤井氏の本は示してくれている。
 現代中国で毛沢東魯迅を「革命の聖人」に仕立て上げたが、その毛沢東が1950年代にいま魯迅が生きていたらどうしているかを問われ「牢屋に閉じ込められて書こうとしているか、大勢を知って沈黙しているだろう」と答えたのはさすが毛沢東と思った。魯迅読書史として大江健三郎村上春樹を取り上げているが、もう少し掘り下げたならもっと面白かったと思った。(岩波新書