中井久夫『分裂病と人類』

中井久夫分裂病と人類』

精神科医による精神医学的人類史である。壮大な精神医学と歴史人類学の結合である。
中井氏は狩猟民の野生の思考には、獲物を狙う微分的兆候能力に優れ、先取り的妄想や強い動物への安全保障喪失感など分裂病に親和性があるという。それが、農耕社会成立で穀物栽培による禁欲的な勤労、貯蔵など強迫症的な執着気質を産む。うつ病が発生する。面白いことに近代初期の大航海時代や資本主義発生期には自己の人間的弱点の敏感さ、困苦への耐性、かすかな兆候への感受性、予想される事態への先取り的対処など狩猟民的分裂症親和性があると中井氏は見る。
「執着気質の歴史的背景」の章は面白かった。うつ病になる執着気質は、農耕社会の熱中、勤勉、几帳面の「模範社員、模範青年、模範職人など」に見られる「甘え」の断念から生じる。「世直し」よりも「立て直し」に優れる。中井氏は二宮尊徳や武士階級の自己抑制の倫理から、森鴎外まで分析している。大石良雄森鴎外の「意地」は自己抑制であると共に禁欲、忍耐、諦念の自己主張として「甘え」の裏返しとされる。
「西欧精神医学背景史」の章は三分の二を占め、西欧精神史にもなっている。「魔女狩り」が中世の気候寒冷化などで生産力減退による支配者の挫折を,女性へ責任を転嫁で補償しようとすることから生じると考えている。
 無意識の発見など力動的精神医学(フロイトユングなど)が魔女を否定した平野の農耕地帯の啓蒙主義に反対し、森と平野のはざまの精神から作られたという分析は、刺激的な見方である。魔女狩りの異端排除による透明性を求める論理は、精神病者の病院隔離まで一貫していると中井氏は見ている。西欧は人類史上画期的だが世界では例外的現象と見る中井氏は、「理性」対「非理性」の文脈で分裂病を考え、自我=意識と考える見方や、原子論と一回限りの人生という発想、さらに「法の支配」と「進歩」と、其れに反するものの排除するという思想が、西欧文明の特徴だとする。西欧文明を相対化する色々なヒントが詰まった本である。(東京大学出版会