小田実『大地と星輝く天の子』

小田実『大地と星輝く天の子』

 この小説は古代ギリシャアテネを舞台にソクラテスの裁判と死を核としたものである。だがペロポネソス戦争で敗戦し政争が繰り返されるアテネで生きる雑多な民衆たちの生き様が描かれている。30人も登場人物がおり、市民、奴隷、在留外人、革命家、カルト新宗教徒、巫女、娼婦、スパルタのスパイが繰り広げる「全体小説」である。小説はソクラテスに対する3人の告発から始まり、裁判から死刑判決、そして死で終わる。裁判小説とも読めるし、ソクラテス論とも読めるが、英雄がいないただの普通の人―様々な異質な民衆のぶつかり合いと共生がテーマだと思う。小田は東大在学中古典ギリシャ文学を専攻しているから考証は確りしているが、空襲など戦災を受け10代に敗戦後大阪の闇市など生きた経験が、異国の舞台に生かされている。
ソクラテスプラトン、クリトンの姿も民衆社会のなかで相対化されているが、民主主義社会のなかでの陪審裁判が、いかに大衆の気分で流されるか、告発者たちの名誉願望や政治的思惑、金銭的利権で左右されるかが見事に描かれている。告発者悲劇詩人願望のメレトスの出世欲望が屈折し告発に到り、裁判の黒幕民衆政治家、金持の告発者アニュトスに利用されていく。もう一人の黒幕貧乏貴族ダモクセノスの奴隷ガストロンは興味深い。奴隷の革命を目指す冷静な知性の持ち主だが、カルト宗教の狂乱にもかかわる謎の人物だ。もう一人占領者スパルタのスパイ・ディオンのニヒリズムや美少年ケルドンの生きる空虚さからシリアの砂漠へ旅立とうとする姿も面白い。人間の愚かさが喜劇的に提示されていて、小田31歳の初期小説(ベトナム反戦運動の以前の作品)だが、その後の小田の生き方を予感させる小説である。(岩波文庫上・下巻)