林望『能に就いて考える十二帖』

林望『能に就いて考える十二帖』
 国文学者林氏は謡曲を習い、謡の詞章が旋律や声調さらに拍子が一体になって、強いイメージ喚起力を持っているという。また四季、恋、追憶、人情、史実、演芸、神事、仏教、と様々な要素を含み、それを叙情の雲が覆っているともいう。この本は能の基盤にある国文学古典や演芸にまで目配りし、十二の謡曲を考えている。それぞれに情念が掲げられ、「砧」の恋慕、「田村」のめでたさ、「熊野」の焦り、「融」の執念などだ。
私が面白かったのは、「卒塔婆小町」など小町ものの「醜さ」と「業平」の「美男」についての考察である。小町ものは、美女の醜悪な老後死後が強調され、物狂いになる背景には遊行する女芸能者がいたと考える。また「業平」や「翁」など美男は、老人になっても美少年の時を祝い、長命長寿を寿ぐとみる。ジェンダーの視点から見たら問題だ。能には世阿弥のいう「老木の花」が多く、私は老人の文学だと思う。
鞍馬天狗」と同性愛を考えるも面白い。天狗が牛若丸を誘拐したのは兵法を伝授するのではなく、同性愛の惚れた弱みからであり、同性愛と颯爽とした武者ぶりは共存するという。私は三島由紀夫を思い出した。「道成寺」の「恨み」」については、恋の恨みが蛇女の怨念として現れるという通説に対して、「蛇女」の怨念がただこの場所に地縛霊のごとく残っていて、鐘の再興を機に再び迷い出たに過ぎないと林氏はいう。乱拍子は大地を踏む祝福鎮魂呪術というのも納得できる。
能の結論が仏教イデオロギーでの救いにいきつくのは、ギリシャ悲劇の最後に機械仕掛けの神の登場で大団円になるのと似ているが、面白くない。「隅田川」の悲劇が人攫いに攫われ死んでいく子供、母との再会もなくという悲劇は悲劇のまま、突然終焉し救いがないほうが、迫力がある。(東京書籍)