ジャンケレヴィッチ『ドビュッシー』

ジャンケレヴィッチ『ドビュッシー

フランスの哲学者ジャンケレヴィッチによるドビュッシー論の名著である。綿密な読譜と自分でもピアノを弾く哲学者は「生と死の音楽」という視点で、思想から深層心理まで広げドビュシーを論じている。作品「ペレアスとメリザンド」を例にとり、衰退の深淵に落ちていく「屈地性」の恐怖と目眩と誘惑が論じられ、阻止された生成と澱んだ水で前進や展開がなく、水に映る停滞感が表現される。そういえば、ドビュシーは、連続すし生成するソナタや交響楽を嫌った。首尾一貫した言述への後ろめたさ。結末を待たず立ち去る。いかなる生成や連続からも外れ、「永遠な現在」。それは「正午の瞬間」光の実相、絶対の現在性である。正午は長い午後への宙づりの瞬間でもある。そこから「牧神の午後への前奏曲」が始まる。私は、このくだりを読んでいてニーチェを感じた。
ドビュシーはいかなるロマン的主観性から超脱しているとジャンケレヴィッチはいう。直接性の無媒介の客観性。物自体の事物の直接性。「具体音楽」の先駆けである。作品「海」がそうだ。人間がいない、風景でもない原始自然の声。荒々しい風と波の対話がある。人間的目的も歴史もない。と言ってもドビュシーは、霧と雲の作者であり、無定形に溶解するものの詩人だとジャンケレヴィッチはいう。無なる風や雲。「永遠と非在、出現と消滅、実在と虚性が一致するのは、一瞬のことである」という。不連続の多元論は直接性からじかに生まれるともいう。点描画法の印象主義者。ピアニシモの作曲家で「できるだけ弱く」である。無限小のひそひそ話しの「沈黙」への傾斜がある。束の間の出会いという生がある。「初めと終わりの否定性、それによって高まる持続する中間部の肯定性は、メリザントの中に両義的な形で表われている」といい、ジャンケレヴィッチの名著は終わる。(船山隆・松橋麻利訳、青土社