山折哲雄『教行信証を読む』

山折哲雄『「教行信証」を読む』

親鸞の本を幾冊か読んだ時、ドストエフスキーの「罪と罰」や「カラマーゾフの兄弟」を思い浮かべていた。承元の法難で死罪を逃れ流罪になったことが親鸞思想に大きな影響を与えたのは、ドストエスキーが皇帝反逆で死刑からシベリア収容所送りで思想が深まったのと似ている。悪や罪とは何か、許しと悔いによる救いとは何かを、終生考えたのも同じである。キリスト教と仏教の違いはあったとしても。山折氏のこの本を読み、その感は深まった。
山折氏は「教行信証」を「古事記」と比べ、インド、中国など水平思考なのに「古事記」は垂直思考だという。また「平家物語」に「無常」が深いが、親鸞にはその言葉は微々たるもので「無明」の闇が代わりに強いという指摘など考えさせられた。
この本の中核は万人救済論を説く親鸞が、極悪人も念仏で果たして往生できるのかの格闘が「教行信証」でいかにおこなれたかを考えている点だ。五逆(父、母殺し、聖者殺し、仏の身体損傷、教団破壊)正法誹謗は救いの除外規定になっていたのを、親鸞はアジャセ王が父殺し、母を幽閉する例で自発的懺悔によって、釈迦に帰依し、仮の浄土(化身土)に救われることを証明しょうとした。「カラマーゾフの兄弟」の父殺しとその救いの問題だ。「悪」が自力・利己から出てくるとすれば、懺悔は自力なのか他力なのかという難問を抱える。山折氏は親鸞の終末観と自己を悪人と捉える自己否定意識まで踏み込んで、親鸞を捉えようとしている。また法然と自分を流罪にした後鳥羽上皇土御門天皇をアジャセ王と見なしていたとの捉え方も魅力的解釈だ。人間存在の「無明の闇」とその「救い」を深層から苦悩のもとで追及する晩年の親鸞像が見事に描かれている。(岩波新書