黙阿弥歌舞伎を読む

黙阿弥歌舞伎を読む(その1)
『鼠小僧』
 黙阿弥の歌舞伎は、幕末の転形期の時代に江戸の終焉感覚と、価値観の相対化を核とした遊び人の美学がある。演劇的には、不条理の運命悲劇にあたるだろう。因果の小車に翻弄されるが、自分の好みによって生きていこうとする強さもある。「鼠小僧」は、いわゆる「義賊」者で「盗みはすれど非議非道の働きはせず」を信条とする。100両を騙り取られた男女のために、大名屋敷に忍び込み盗みをして金を盗む。その屋敷の辻番が濡れ衣で捕まるが、その男が鼠小僧を赤子の時捨てた実の父親なのだ。辻番の次男が親孝行でその100両を返そうと商家に入り盗みで捕まるが、後家の女主人が庇う。鼠小僧は捨て子だが「餓鬼の折から手癖が悪く、人の物は我が物と盗みはするが、今日が日まで、邪曲非道なことをせず、」という。だが所縁の人に難儀をかける「因果は廻る小車の引くにひかれぬ絶対絶命」に陥り自首する。100両を騙り取ったのが養母だったり、鼠小僧の女房が後家の女主人の娘だったり、血縁の鎖が絡み合う。鼠小僧は「悪人」でもあり「善人」でもある。善悪の相対化がある。金持から取り貧乏人に配る所得の再配分を行う公正観の持ち主でもある。「粋の悪人」と言えようか。
『弁天小僧』
黙阿弥の悪人は鶴屋南北の残虐悪に比べると、悪といっても「遊び的悪」といえようか。劇場的犯罪ともいえる。「悪に強きは善にも強い」というセリフは鼠小僧にも弁天小僧にも出てくる。善悪の相対化と両義性があり、運命の不条理によって、どちらにも転がる。日本駄右衛門、弁天小僧ら5人組も「義賊」に当たるだろう。鼠小僧よりあくどく、集団詐欺を行う。有名な浜松屋での劇場的犯罪も、弁天小僧の「しらざあ言って聞かせましょう。浜の真砂と五右衛門が歌に残せし盗人の種は尽きざる七里ガ浜」の名セリフがあるが、ここでも浜松屋主人が生き別れた息子が弁天小僧で、養子の若旦那が日本右駄衛門の息子という入れ違えに交差した親子関係が明らかになる。血縁の交差と善悪の交差がある。幕末の価値の交差と善悪の相対化が、粋で美文調の遊び感覚で演じられる。黙阿弥の劇を読んでいると、迷路をぐるぐる廻って出口が見つからぬ不安感を感じる。(岩波文庫