幸田文『木」『崩れ』

幸田文『木』
幸田文『崩れ』

 
 
幸田文は70歳前後から、人の背に負ぶさったりもしながら、北海道・富良野のエゾマツや屋久島の縄文杉また安部川の山崩れなどを見て周り、晩年のこの2名作を書いた。そのエネルギーと好奇心、現地での観察に敬服する。高齢化での生き方の凄さを感じる。樹木から山崩れへの思い入れは自然の生と死さらに再生の希望まで象徴していて人間のあり方まで包み込んでくる。
 『木』では、富良野のしびれるような冷気のなか、300年たった老木が倒れた上に若木が一直線に伸びている。先のものが絶え、それを養分として若木が育つ。輪廻再生の姿に感動する。静岡の暴れ川である安倍川が嵐で土手を流した翌日、洪水の跡の川底にススキの新しい穂が金茶色に光っている感動。幸田は老松を見て、何度も風雪や山崩れに満身の我慢で耐え、幸い生命は全うしたが、木の振りに癖ができ苦難の痕跡を美観に格上げしたことを感動している。(対談「樹木と語る楽しさ」ちくま文学全集「幸田文」収録)この本で「木のきもの」の章も面白い。樹皮を着物に見立て、杉は縦縞、桜は横に筋がある図柄、松は厚い着物、いちょうは太い皺、ヒメシャラは羽二重と比喩が的確だ。
 『崩れ』は凄い本だ。緑豊かな自然のなかで、山が崩れ、川が荒れ、土石流が生じる。樹木を見に山地に入った幸田は、安部川の大谷崩れ、富士山の大沢崩れに出会い、取り付かれたように、老身を鞭打ち立山連峰の鳶山崩れや、長野の稗田山崩れ、桜島や有珠残山の噴火の土石流まで見に行く。崩壊のエネルギーとその悲愁感。崩れの巨大なエネルギーはその地質の弱さから生まれることの驚きが幸田の文から伝わってくる。富士山の端麗さは大沢崩れの恐ろしい厳しさの上に成り立つと書く。「崇高な美」の恐ろしさをこれだけ見事の文章で書いた作品はないだろう。幸田の死生観が分かる。日本文学の傑作だと思う。(『木』新潮社、『崩れ』講談社