寺山修司演劇論集

寺山修司演劇論集』


  1970年代に「天井桟敷」劇団を率いて演劇界に旋風を引き起こした寺山修司の演劇論は、今読んでも刺激的である。寺山はいう。「ドラマツルギーとは関係づけることである。それは、演劇を通した出会いのなかで、観客と俳優という階級的分離思考を排し、共同的相互的に関係を生成してゆくことであり、そのことのよって、偶然性を集団意識のなかで組織してゆくことである」。
  寺山演劇では虚構と現実は分けられず、入れ子構造になっている。市街演劇や書簡演劇がそれだ。皮肉なことにゼロ年代になって、それが犯罪に模倣され振込み詐欺になったとわたしは思う。この論文集に「犯罪における観客の研究」がおさめられているが、寺山が生きていたら苦笑しただろう。
  観客論で舞台と観客席の分離を破壊しようとした寺山は、ブレヒトの観客に異化作用を起こし教育する演劇を批判する。観る演劇から体験する演劇への転換は、「阿片戦争」で劇場に観客をとじこめ出口を求め登場人物を探すドラマに結実する。
  俳優論では、出会い・関係づけるドラマのため観客と、「接触の媒介」の呪術師が俳優と目され、脚本の奴隷で現実の模倣・再現の演技する俳優は避けられている。俳優は作者が台本のなかで構築した王国に奉仕する奴隷であってはならないと寺山はいい、自己の人格の消去訓練を勧める。
  劇場論では、施設や建物ではなく、劇的出会いの場とされ、演劇を劇場から引きずりだし街路や日常生活の場を劇場にしようとする。それは観えない演劇「盲人書簡」に結実する。
  戯曲論では文学的に一人の作者が書き完結した戯曲は単なる地図、設計図であり、偶然性による集団幻想の想像界の出来事(ハプニング)を寺山は賞揚した。
 この本を読むと「革命の演劇」と「演劇の革命」が結びついた情熱の時代が浮かび上がってくる。(国文社)